世の中 「快・不快」の不均衡~ヘテロ男性は、自分にとって不快なエロ表現への配慮に気づいていない - 宇野ゆうかの備忘録
こんにちは。 先日ブログで現在放映中のアニメ「GRIDMAN」の女性キャラ抱き枕について、どう考えるべきかを書いたところ大きな反響を呼び、今でもその記事はツイッターでリツイートされて広まりを見せています。 arrow1953.hatenablog.com その抱き枕、君は職場に持っていける? 行政のセクハラ定義からエロ絵のあり方を考える 日本国憲法を通じてエロ絵を考える その抱き枕、君は職場に持っていける? 記事の感想については「やりすぎだ」という人もいれば相も変わらず「表現の自由」という単語を持ってきて「エロの基準は人それぞれで異なる。だからこそなるべく表現の自由は尊重されるべき。逆に、こういった表現に対する規制から言論やもっと大事なものへの規制が広がっていくのを想像できないバカの発言」という人も。確かに何をもって「エロ表現」っていうのかは相対的ではあります。なので、そういう人たちは多分
KaoRiさんの告白、告発の文章を読んだ。つらかっただろうと思う。 note.mu これを読んだあと、アラーキーの写真をこれまでと同じように見ることはできない。 アラーキーの写真は好きだった。 文学研究をしている人間として、私は作品の創作過程がはらんでいた倫理的・道徳的な問題を、そのままナイーブに作品自体の価値に結びつけて、断罪するようなことはしたくないと考えている。だから脊髄反射的に弾劾したりはしない。(現時点では一方的な申し立てだ、ということもある) しかし、自分も研究者であると同時に、この時代を呼吸する一人の人間で、こうした創作、公開、事後対応のプロセスを経ていることが強く疑われる(断定はしないでおく)作家の作品に対して、かなりの嫌悪感を感じてしまう。そしてその感情が、作品の評価に対して跳ね返ってしまうことを止めることはできない。残念だ。 私は「モデル小説」についての歴史的な研究とい
1 30年も前になるか、知人が変わった裏ビデオを好んで集めていて、何度か見せてもらったことがある。自らの欲望のまま撮影したのか、一般的なエロなる感覚を誤解していたのか、怪作と言うか実験映像としか思えないような作品がけっこうあった。例えば、納豆を何百パックもぶちまけた風呂桶で、ボディ・ペインティングを施した男女がいろいろな運動をしている映像を見ても、性欲で凝り固まった20代前半のプレハブちんこ(=すぐ立つ)をもってしてもぴくりともしなかった。「エロって何なんですかにゃー?」と考えさせられるばかりである。 そうした「実験映像」の中でも特に印象に残っている作品がある。 公共交通機関である電車のなか(多分、山の手線)、白昼堂々と事に及んでしまうという内容の作品である。 このビデオ作品の冒頭で、出演女優、製作者たちが制作意図を以下のように語っていた。 「よき社会人ヅラをしていても、人間というのは性欲
私はマンガ作品が人間の価値観に影響を与える可能性を拝しない。価値観は社会的に構成される部分が大きいので、社会に流通するマンガ作品もその一部として機能しているだろう。私たちの性/性役割についてについても、マンガ作品が差別を深めたり、差別に抵抗する力になったりすることはあるだろう。その上で三点を述べておく。 (1)マンガだけが影響を与えるわけではない (2)「性役割の固定化」と「性暴力」をイコールではない (3)「表現物を理由にした性暴力」の言説の危険性 (1)マンガだけが影響を与えるわけではない 私はかねてから、性差別の抑止のために表現規制をするのであれば、性差別的な記述のあるマルクスやヘーゲルの文献についても検討すべきだと思っている。私は哲学・思想の学会に出席するが、そこではマルクスやヘーゲルの研究者が差別発言を繰り返している。男女二元論による本質化を行い、学会で「女性の本質は出産すること
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く