後鳥羽上皇が、鎌倉幕府を牛耳る北条義時の討伐を命じた「承久の乱」。結果的には、幕府側が圧勝し、以後、武家政権は盤石なものとなった。しかし、後鳥羽上皇が挙兵した時点では、決して簡単な戦いではなく、幕府は2つの作戦の間で揺れていた。立地的に守りやすい鎌倉に籠城するか、思い切って軍勢を京都に差し向けるか――。 朝廷の権威に立ち向かうことへの抵抗感が強い御家人も多いなかで、義時は果敢にも京都への進軍を決意。勝利を呼び込むことになった。だが、そこには一人の男による助言があったことは、それほど知られていない。「承久の乱」が起こった背景も踏まえながら、偉人研究家の真山知幸氏に解説してもらった。(JBpress編集部) ターニングポイントとなった「実朝暗殺」 鎌倉幕府の3代将軍の源実朝が暗殺されると、4代将軍は誰にするのか後継者探しが難航する。 といっても、実朝の暗殺を受けて、慌てて後継者を探したわけでは