屈折誰何 さて、部分が全体を追い越すことは可能か、もし可能だとするのであればいかなる条件によってかを考察するにあたり、私が前回この『概論』に寄稿した『部分が全体を追い越すとき』では倫理こそがそれにふさわしいのではないかと考え各用語の整理を行った。今回も引き続き当座の話題を扱っていくがその前に少し遠回りをしようと思う。それは「理解」をめぐる解釈学的循環の話である。 解釈学的循環をめぐる問題はF.アストによって主題化され、その後F.シュライアーマッハー、J.G.ドロイゼン、W.ディルタイ、M.ハイデガー、H.G.ガダマーへとその様相を変化させながら論じられていった。 アストにおいてその循環が問題となるのは古典全体の普遍的精神の認識と個々の古典作品の現れの連関である。個々の古典作品の持つ精神性を解さない限り、私たちは古典作品全体の持つ普遍的精神を感じ得ない。しかし、その個々の作品がそれぞれ「古典