千載不決の議(せんざいふけつのぎ)は、北宋の太祖趙匡胤の死と、その死後の弟の太宗趙光義による帝位継承をめぐる一連の疑惑のことである。載は千載一遇の熟語における用法と同様、年と同義で、「千年を経ても結論が出ない議論」という意味である。 開宝9年10月20日(976年11月14日)の夜、太祖が急死し、弟の趙光義が帝位に即いた。これが宋の太宗である。しかし、その即位は当初から疑問視されていた。太祖には、立太子されてはいないものの、すでに成人した男子が何人もおり、太宗の即位は彼らを差し置いてのものであった。さらには、既に人事不省となっていた太祖の寝室に、当時晋王であった太宗が見舞いに駆けつけるなり、太祖の死が公表されたことから、太宗が兄の太祖を殺害した上で即位したのではないかとの疑惑が持たれたのである。 太宗は、自身の即位については太祖の遺詔があり、自分たち兄弟の母の昭憲太后の遺言(金匱の誓い(中