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価値に関するishikawa-kzのブックマーク (11)

  • 当事者論の貧困は、妄想的糾弾主義を生む。 - Freezing Point

    カテゴリー当事者*1を擁護する人の間違いを指摘すると、自動的に「カテゴリーに敵対している」とされてしまう。 彼らは、「○○の味方」を標榜するだけで正義と思い込んでいるから、とにかく批判しただけで「○○の敵」にされてしまう。 「私たちは○○の味方をしている。その私たちに敵対したのだから、お前は○○の敵だ」*2。 属性当事者ご自身がそのカテゴリーを擁護している場合*3には、ますますそうなってしまう。――私は、カテゴリーを攻撃したのではなくて、カテゴリーで人を切り分ける差別的な当事者論を批判したのだ。 差別的な当事者論は、たとえそれが属性当事者人によってなされたものであっても、当事者的な分析責任を放棄している。 「弱者の味方さえしていれば正義でいられる」という全体主義の幼児性は、当事者論の貧困に基づく。 *1:「女性」「ひきこもり」「在日」「フリーター」など、弱者カテゴリーを形成するものなら何

    当事者論の貧困は、妄想的糾弾主義を生む。 - Freezing Point
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/09/16
    「カテゴリー当事者*1を擁護する人の間違いを指摘すると、自動的に「カテゴリーに敵対している」とされてしまう。 」確かに。
  • 社会参加臨床 メモ - Freezing Point

    カテゴリー当事者ではなくて、プロセス当事者をしなければならない。 カテゴリー当事者という方法は、人権運動や女性運動で取り組まれてきた。 しかしそれだけでは、そもそもカテゴリーで人を分けることそのものの弊害を論じられない*1。 カテゴリーではなく、分析プロセスが、権利を主張しなければならない。(とはいえ、そんな法概念があり得るだろうか) 人や作品について、「ハイカルチャーか、サブカルチャーか」 「マジョリティか、マイノリティか」 「強者か、弱者か」etc... という分類は、それ自体がイデオロギーになってしまう。 大事な分類は、「自分の生きている関係性を素材化できているか」――そこにしかない*2。 外部から誰かや何かを論じるときにも、「加害/被害」を、安易なカテゴリー化に落とし込まない。 関係性の《素材化=プロセス化》は、実験動物のように「一方的に観察される」ことではない。 自分と他者とを同

    社会参加臨床 メモ - Freezing Point
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/09/14
    「そもそもその論じようとする作業自体のフォーマットを組まなければならない、それをこそ主題化している(なぜなら、社会順応そのものが問題なのですから)。」
  • お客様を見るか、利益を見るか - (旧姓)タケルンバ卿日記避難所

    店長の問題でもあるし、その会社の社風としての問題でもある話。 よしもとばななさんの「ある居酒屋での不快なできごと」 - 活字中毒R。 一言で表現すれば、優先順位なんですよ。 自分がサービス業時代に仕込まれたのはこの考え。 「お客様にNoを言わない」 基は断らない。「No」を言うなと。これは徹底された。特に現場サイドであればあるほどそう。お客様に直接接する立場の人間が、お客様に「No」を言ってはならない。「Yes」を返すために何ができるかを考えよ。お客様の立場になって「Yes」を返せと、口すっぱく教えられた。言い換えれば「顧客第一主義」でもあり、「カスタマー・ファースト」。上司や会社を向くのではなく、お客様を向けと。職務がサービススタッフならば、お客様をサービスするプロフェッショナルであるべきで、お客様のためになることを優先して考えればいいと。 ただ、この職務は出世や役割変更によって多少変

    お客様を見るか、利益を見るか - (旧姓)タケルンバ卿日記避難所
  • 松尾匡『商人道ノススメ』の山形書評への松尾反論 2009-08-10 - Economics Lovers Live

    山形さんの書評をむりやり一言でまとめると「松尾は自分のイデオロギーにあうように商人道を構築してそれで宣伝しているだけ」ということになろうか。 この山形さんの書評への反論を松尾さんが書いている http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_90808.html武士道」の検討は不十分です。すみません→ というとこの段階で、書の半分は山形さんの反論に屈したことになるのではないか。なぜなら松尾流商人道は武士道への批判と対になっているわけで、その反論する相手が、歴史的あるいは現実的に明確でないと、松尾さんのが意味をなさない批判行為になるのではないか? この松尾さんの反論の中でも書かれているが、新渡戸の武士道は松尾さんが批判する武士道と違うのか、みたいな印象もある。『葉隠』もちゃんと読んでないという。じゃあ、いったい「誰が」「どこで」いった「武士道」なのか? これは『経済

    松尾匡『商人道ノススメ』の山形書評への松尾反論 2009-08-10 - Economics Lovers Live
  • 作家の仕事としての、《つながりをつくること》 - Freezing Point

    同時代に見られるつながり方を踏襲するのではなく、つながることそのものを原理的に考察してしまうと、簡単にはつながれなくなる*1。 つながるというのは、固定的なナルシシズムのスタイルを共有することか。 維持されたナルシシズムを破壊にかかる、そういう作業に入らざるを得ない体質の場合、どんなつながり方があり得るのか。 相手の分析の独立を保証するよりも、ナルシシズムを保証する信仰対象を与えたほうが喜ばれる。――ガタリは「分析装置=触媒装置(analyzer=catalyzer)」と語ったが、今は分析が、触媒というよりは嗜癖の対象になっている。 作家の役割は、ナルシシズムを保証することではなくて、降りかかるナルシシズムの破綻から目をそむけないことではないのか。 「ナルシシズムの確保に向けて書く」ことは、恣意的に利用可能な消費財をつくることでしかない。 *1:というか、実は「つながりを考察する」ことが、

    作家の仕事としての、《つながりをつくること》 - Freezing Point
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    ishikawa-kz 2009/07/15
    「中上は、大阪という街に出たときの安堵と嫌悪を語っている。 つまり私たちは、街中でも《法や制度、すなわち物語》に包まれる。」最近街がいろんな意味で元気を失くしている感じします。不景気のせいだけではない
  • 『差別と日本人』はexcitable - 論駄な日々

    差別にまつわるを手にしたのは久しぶりで、カラカラに乾いていたスポンジがふたたび水を吸い込んでいくような感覚にとらわれた。わたしが記者として被差別部落と在日朝鮮人を対象としたのは(野中さんの故郷でもある)京都においてであった。広島で働いていたころも無縁ではなかったけれど被爆地には別の大きなテーマがあった。東京で暮らすようになって間もないころには、東日部落解放研究所での自主的な勉強会にもちょいちょい参加させてもらっていた。ただ、わたしはどこまでいっても「足を踏みつけている側」の人間であった。 辛淑玉、野中広務『差別と日人』(角川oneテーマ新書、2009) 差別問題を取材していたとき、常に意識させられてきたのは当事者性だった。表現内容が同じであっても、表現者が被差別者である場合と、そうでない場合とでは説得力にも差がある。当時はじぶんなりに考えを整理していたつもりであったが、別の角度から表

    『差別と日本人』はexcitable - 論駄な日々
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    ishikawa-kz 2009/07/11
    「「アンタら、わかったふうなクチをきくけど、差別の本当の痛みは当事者じゃないと分からないんだよ」という言葉の前で、オロオロするところからスタートする。」自分が介護してた時も何度もオロオロしました。
  • 時代と思想――当事者性の抑圧と配分のスタイル - Freezing Point

    カテゴリー当事者への居直りではなく、素材化としての《当事者-化》。 プロセス中心主義。 私は9年前、「ひきこもりの当事者」という役割固定で社会参加の機会を得た*1。 しかしその後の私は、「当事者的分析」を周囲に要求したことで、排除されるようになった。 私に近づいてくる人のほとんどは、私を「ひきこもり当事者」という役割フレームに監禁するだけで、取り組みとしての当事者的言説化は拒否する*2。 ほとんど全てのマイノリティ論は、《コスプレ的役割固定》と、politically correct な《メタ正義の居直り》のカップリングでしかない。 この発想では、マイノリティ側は役割としての「当事者=被害者」に居直りたがるが、実際に生きられた関係のなかでの当事者性を引き受けなおすことをしない*3。 私は、既存の当事者論に洗脳されたままコミュニティを築こうとして(あるいは参加を続けようとして)、メチャクチャ

    時代と思想――当事者性の抑圧と配分のスタイル - Freezing Point
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    ishikawa-kz 2009/07/10
    「私が維持しようとした正当性は、最初からなにか理不尽な無理だった。」正しいという時に、力んで苦しむこと。
  • 医学都市伝説: リエイゾン精神医学の虚妄(1)

    2006年10月02日  リエイゾン精神医学の虚妄(1) [医学・科学関連] 5年ほど前、こんな文章を書いたことがある。 「リエイゾン精神医学、という領域があり、身体疾患治療過程での精神科合併症を取り扱うのだが、私はこの立場には極めて懐疑的である。身体科医師がちゃんとした対応すればよいので、おかしくなったらはいお願い、というのは例外的であるべきだ。しかも、大概の紹介患者は来の治療へのちゃんとした説明など受けておらず、漫然と抗不安剤が処方されているだけだったりする。病院管理者の立場なら、根的な対処ができるかもしれないが、一診療分野として対応しても、アリバイ的かかわり以上のものにはまずならないと思う。」(2001年10月15日の日記から) なんで突然昔の文章なんぞを引用したかというと、この「身体疾患治療過程での精神科合併症」というものが、何のことはない医療の手抜き、医療関係者のサボりと鈍感

    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/07/08
    「この「身体疾患治療過程での精神科合併症」というものが、何のことはない医療の手抜き、医療関係者のサボりと鈍感さがもたらした結果に過ぎないという」外傷や疾患の適切な治療と併行して精神的ケアが力を発揮する
  • 医学都市伝説: リエイゾン精神医学の虚妄(2)

    2006年10月03日  リエイゾン精神医学の虚妄(2) [医学・科学関連] 先日の夕方、やっとこさ午後の外来診療を終えようかという頃、外科系病棟の看護主任から電話がかかる。4ヶ月前から交通事故で入院している少女が最近精神的に不安定なので、見てくれないかというのだ。その少女は横断歩道を歩行中、車に引っかけられ、数百メートルを引きずられて、背部から臀部に、筋層に達する広範な皮膚欠損創を受けたのだった。 幸い、骨には異常が無いのだが、背中の大部分がズルむけ状態で、この4ヶ月間、上向きにもなれず、ずっと腹這いのまま創部処置を続けているが、なかなか皮膚が上がってこず、二度ほど行った皮膚移植も一部しか生着しないとのことだった。 特に創部の消毒処置の際、激しい痛みを訴え、最近では処置の日になると朝から泣いていたり、独り言をいっていたりする。母親に「あの窓から飛び降りたら死ねるだろうか」などと尋ねたりす

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    ishikawa-kz 2009/07/08
    「少女が本格的な精神失調を来していないと判断するには、それなりの専門的な指標があるのだが、そういうややこしいことをいう前に、この例では痛みに対する充分な配慮がされていないことは素人目にも判るはず」
  • Lévinas, Emmanuel『存在の彼方へ』

    ■Lévinas, Emmanuel 1974 Autrement qu'être ou au-dela de l'essence, The Hage: Martinus Nijihoff. =199907 合田 正人 訳 『存在の彼方へ』,講談社学術文庫,477p. ISBN-10: 4061593838 ISBN-13: 978-4061593831 1400+ [amazon]/[kinokuniya] ※ w/le03, p *一般注記:『「存在するとは別の仕方で, あるいは存在することの彼方へ』(朝日出版社 1990年刊)を全面改訂したもの ■内容 (「BOOK」データベースより) フッサールとハイデガーに現象学を学び、フランスに帰化したユダヤ人哲学者レヴィナス。戦争の世紀の証人として生き、「平和とは何か」の問いを極限まで考察したレヴィナスは、書において他者への責任とは他者の身

    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/06/17
    バウマン理論+立岩のレヴィナス見解「心情として深刻に受け止めたりはできないとしても、とるにたらない問題だとして除去してしまうのはよくないと思える。そんなところからどう考えるか、と私の場合にはなる」
  • 慨嘆 - Freezing Point

    古臭いルーチンをこなしていると、「仕事をした」とみなされ、ねぎらわれる。 気で内在的に取り組んで身を切るような言説生産をすると、趣味と思われる。 「何をすれば仕事をしたことになるか」の判断を、みんながサボっているのだ。

    慨嘆 - Freezing Point
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/06/02
    「何をすれば仕事をしたことになるか」の判断を、みんながサボっているのだ。
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