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批評に関するishikawa-kzのブックマーク (70)

  • *村上春樹 新しい中間階層のメンタリティ - 批評ボード

    第2章 新しい中間階層のメンタリティ 村上春樹は、スピーチにおいて、次のように提案する。 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。

    *村上春樹 新しい中間階層のメンタリティ - 批評ボード
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    ishikawa-kz 2011/07/27
    「村上春樹は今も新しい中間階層の時代を生きている。」
  • 原子力村と文学村 勇気を試される表現者・斎藤美奈子/朝日新聞 - 薔薇、または陽だまりの猫

    朝日新聞に小林信彦「極東セレナーデ」が連載されていたのは1986年1月~87年1月のことだった(現在このは単行も文庫も品切れ。即時熱烈復刊希望)。 普通の女の子がアイドルタレントへの階段を駆け上るというシンデレラストーリーは後半大きく変調する。主人公の朝倉利奈に原発の安全性を宣伝するポスターの仕事が回ってくるのだ。広告会社の圧力に悩む利奈を育てたプロデューサー。そしてPRへの協力を拒んだ利奈は……。 86年はチェルノブイリ原発事故の年。現実がフィクションに影響を与えた例といえるが、はたして90年代以降でもこの小説の新聞連載は可能だっただろうか。福島第一原発の事故が起こる前、新聞もテレビも、この国の多くのメディアは原発を推進する側だった。しかも東京電力はマスメディアにとって無視できない強大なスポンサーだった。 * このたびの原発事故は、文化の面でも大きな課題と反省を私たちに突きつけた。「

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    ishikawa-kz 2011/05/29
    冴えてる「「PK」には印象的なフレーズが登場する。「臆病は伝染する。そして、勇気も伝染する」。ほとんど少年漫画のせりふである。でも「つながろう日本」よりはずっといい」
  • Amazon: 吉本隆明と柄谷行人 (PHP新書): 合田 正人: 本

    Amazon: 吉本隆明と柄谷行人 (PHP新書): 合田 正人: 本
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    ishikawa-kz 2011/05/22
    今日のトイレ内読書。
  • 権力とセクハラの切っても切れない関係:日経ビジネスオンライン

    国際通貨基金(IMF)の専務理事が性的暴行の容疑で逮捕された。 事件を伝えるニュースを通じて、私は、IMFトップの肩書きが「専務理事」であるということをはじめて知ったわけなのだが、それはそれとして、IMFと言えば、泣く子も黙る巨大金融権力だ。少なくとも私は黙る。事情が事情なら泣くかもしれない。その世界経済の舵取りを担う国際機関の最上位者たるストロスカーン氏が、どうにも低劣な犯罪容疑で逮捕されたわけだ。なんともお粗末な事件ではないか。 が、驚くには当たらない。こういう事例は珍しくない。 セクハラ疑惑、桃色醜聞、ピンクの霧、ハニートラップ、美人局。古来、権力とセックスは水と魚みたいに切っても切れない関係だった。現在でも同じ。今後もおそらく同様だ。権力とセックス。皿と肉。鉄壁のワンセットだ。 「英雄色を好む」ということわざもある。勘違いしている英雄ワナビーもまた、たくさんいる。 今回は、権力と醜

    権力とセクハラの切っても切れない関係:日経ビジネスオンライン
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    ishikawa-kz 2011/05/20
    「ダメな人は、自分が見えなくなっている。具体的に名前を挙げると分かりやすいのだが、やめておく。 とにかく、何かを作る人間は、権力的になった瞬間に、ダメになる。むずかしいものだ。」
  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

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    ishikawa-kz 2011/01/24
    「それは肯定、否定という対を形成し得ない<肯定性>である。パスは、そしてパスのデュシャンはこのような<肯定性>を、このような言葉を使わずして語らんとしているように思われる。」
  • ■ - 雨宮まみの「弟よ!」

    ★よくサブカル系に見られがちだけど実は全然サブカル詳しくなくて「相対性理論が好き」って目をキラキラさせて言われた時点で幻滅するので身近な男性との恋愛がまったく成立しなくて困っている私ですが、じゃあ何を聴いてるのかというともちろん宇多田ヒカルを聴いてます。 昔からたまに、批評の世界の話で、メジャーなものや売れているものはもう十分に評価されてるんだから、まだあまり知られていないもののほうを積極的に批評すべきだ、という意見を目にすることがある。 気持ちはわかるし、もっともだなと思うところもある。まだあまり人に知られてない、良いものやすばらしいもののことを人に伝えるのはどう考えても大事なことのように思えるし、そもそも「新しい才能の発見」は、批評の果たす重要な役割だと思う。それに批評家の人生だって有限だから、どうせなら何かためになる仕事をしたいというのももっともだろう。そのことを否定はしない。 否定

    ■ - 雨宮まみの「弟よ!」
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    ishikawa-kz 2010/12/26
    「私は批評って、応援じゃないと思う。結果的に応援になることはあっても、応援を目的としたものじゃないんじゃないか。本質を理解し、それを解きほぐしてみせることが批評なんじゃないのか」
  • http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0716.html

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    ishikawa-kz 2010/12/23
    「ただ、そのわりには竹内好はすっかり忘れられている。そこを思うと、これはやっぱり日本人が魯迅を苦手としているというところに戻ってくるということなのだろうか。」
  • 保険と税金 | オンライン日記 | 1175

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    ishikawa-kz 2010/12/13
    「私の保険に対する関心、つまり消費社会がいかに死を内部化してきたかという問題意識は伏流水のようにどの記事を書くときにも下支えするものが、未だそれ自体としては書かれたことがないのだ。」
  • Homeward Bound | オンライン日記 | 1170

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    ishikawa-kz 2010/12/06
    「「社会的承認が得られない心の隙間に、表層的な慰め合いを求める繋がり願望や、ポリティカリーコレクトな安っぽい観念を共有して相互に承認し合う安易な共同体指向が潜り込むのをいかに防ぐか」が課題だと」
  • 浅田彰【同性愛はいまだにタブーか】

    先月号で櫻井よしこが指摘している通り、有森裕子とガブリエル・ウィルソンの結婚をめぐるマス・メディアの騒ぎは、むしろ日社会の性意識の遅れを露呈することになった。人間の性的指向は多様であり、ゲイだからといって異常ということはないし、女性と結婚するのが珍しいわけでもない。そんなことはもはや常識だ。また、そう考えたからこそ、有森裕子やその家族は相手がゲイだ(った)ということを知りながら結婚に踏み切ったのであり、ガブリエル・ウィルソン自身も記者会見の場で自らゲイだ(った)ということを明らかにしたのである。その発言に飛びついて「スポーツに没頭して男を知らない女がゲイにだまされた」というような下劣な騒ぎかたをした日のマス・メディアの時代錯誤には、唖然とするほかない。 だが、事はマス・メディアだけの問題ではなさそうだ。三島由紀夫との同性愛関係を私小説的に綴った福島次郎の『三島由紀夫 剣と寒紅』が、三島

  • 「当事者」を、名詞形で言うのをやめませんか。 - Freezing Point

    いちど孤立した人が居場所を作ろうとするとき、つながれたかどうかだけでなく、《どういうスタイルで繋がるか》が問われる*1。 しかし孤立する恐怖は、つながりそれ自体を強迫化する。 あるつながりを、そのスタイルを問わずに絶対化する。 《当事者ナショナリズム》な同一化が、人を迫害するフレームになる。 “健常者” は、自分が健康だと思う社会性のスタイルを《ひきこもり当事者》に押し付ける*2。 最初はおっかなびっくりだった《ひきこもり当事者》も、これでいけると思い始めると、「あいつは社会性がない」と非難を始める。 ひきこもり問題は、「逸脱者を歓待すればよい」というだけの話ではない*3。 ある社会性の方針は、“臨床的な” 方針をすでに含みもっている*4。 人をカテゴリー化することで、あなたは一定の《社会性=臨床方針》を生きる(参照)。 「ひきこもり当事者」という名詞形の自己確認で、ようやく居場所を得たと

    「当事者」を、名詞形で言うのをやめませんか。 - Freezing Point
  • http://162.teacup.com/sinopy/bbs/1151

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    ishikawa-kz 2010/11/15
    「ダイビングをする人から水面はふたつあると聞いた。これから飛びこもうとする海面。しかしもうひとつ水面がある。それは海中から見た水面だ。正確に言えば空気の面とでも言えるのかも知れない。」
  • 社会参加の批評に、単なるメタはあり得ない - Freezing Point

    Togetter 「美術批評家が、なぜ村上隆については「口を噤んでしまう」のか?」、 水野亮(みずの・りょう)氏の tweet より*1: 俺は村上隆のやっていることは煎じ詰めれば「デュシャンの便器」と変わらないと思っている。つまりマガイモノ(便器)を物(芸術)に見せかけることで「芸術」自体の成り立ちの「マガイモノさ」を露わにするという構造批評を内在化させたメタ的な作品なのだ。 (略) 村上隆がことあるごとに(今回のBTの表紙を見れば分かるように)「芸術」を連呼し強調するのは、それがホントは「芸術」でないからである。でもそのことによって「当の芸術」も実は「マガイモノ(便器)」であるということが露わになるその構造が、おそらく批評を困難にさせるのだろう。 だから村上隆の作品に対して「正面から向き合い」美学的な観点から難癖をつけてみても、それは「便器」に対してアレコレ言ってるのと同じで、傍か

    社会参加の批評に、単なるメタはあり得ない - Freezing Point
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    ishikawa-kz 2010/11/11
    「そして《患者=作家》が、自称「批評家」*13に振り回される。⇒ “患者” こそが、誰よりも批評的戦略を必要としている。」
  • 大澤信亮『神的批評』 - martingale & Brownian motion

    うーん。なかなか批評しづらい批評ですねー。 掲題のにもあるが、著者は、NAMの「中の人」として、その解体にも立ち会った人間として、そこに、総括がなかったことを「総括」する。 NAMの失敗以来、日文学における柄谷行人の権勢は完全に地に落ちた。そこで何が起こり何が起こらなかったのかは未だ不明瞭なままである。だが悲惨なのはNAMの自己検証能力の無さだけではない。柄谷を含めた関係者たちの沈黙でもない。真に悲惨なのは、そこに批評を次のステージに押し上げる契機があったにも拘わらず、それが考え尽されていないことである。 現実と理論の「微分係数」(小林秀雄)の測定を強いられる状況下で、テキスト論者現代思想ファンの贋物性もまた現われた。必然もないのに時勢に見を任せ陽気にはしゃいだ人間たちは言うまでもなく、そのような実践に対してシニカルに構える身振りにも批評は欠落いていた。私自身がそうだった。柄谷を中心と

    大澤信亮『神的批評』 - martingale & Brownian motion
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    ishikawa-kz 2010/11/09
    「狭い視野ゆえに開ける何か」
  • http://162.teacup.com/sinopy/bbs/1135

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    ishikawa-kz 2010/10/28
    「誤解なきようにしたいが、まったく石井の罪ではなく、ノンフィクションという表現ジャンルの宿痾のようなものではないか。あるいはノンフィクションが文芸的表現として成立したときに担ってしまった原罪的なもの」
  • アイケングリーン「通貨戦争を避ける方法」 - Economics Lovers Live

    アイケングリーン教授のすぐれた論説。これは必読! B_Eichengreen How to prevent a currency war: http://www.project-syndicate.org/commentary/eichengreen23/English 簡単に書くといま現在の通貨競争を避ける法j法はなにか? アイケングリーン教授は30年代において金位制に固執しそのデフレ圧力を保護貿易主義で緩和しようとした国々がそれに失敗し、また当時その保護主義ゆえに世界交易の総額が半減したことに注意を促している。 で、現在はそれほどの保護主義ではない。ただし米国は中国に対して政治的な圧力をかけている。為替の意図的な操作はやめよ、みたいな。ところがアイケングリーンは戦前も金融緩和政策を積極的に行った国は、保護主義的な態度をとることもなくいち早く回復。いまの米国も保護主義ではなくリフレせよ

    アイケングリーン「通貨戦争を避ける方法」 - Economics Lovers Live
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    ishikawa-kz 2010/10/13
    「アイケングリーン教授は30年代において金本位制に固執しそのデフレ圧力を保護貿易主義で緩和しようとした国々がそれに失敗し、また当時その保護主義ゆえに世界交易の総額が半減したことに注意を促している」
  • 日本のポストモダン教育学の原点? - shinichiroinaba's blog

    森直人のエントリに補足。 ただ単にイリイチ流脱学校論のアカデミック教育学における受容のさきがけというにとどまらず、日社会科学におけるポストモダニズム受容の、最初期における水準を示すと思われる、故森重雄の「批判的教育社会学」の問題意識は大略以下のようなものである; 「教育」というカテゴリーは決して自明の、あるい歴史貫通的に人類普遍の何ものかではない。伝統的な(規範的)教育学はしばしばそのことに盲目であった。そもそも「教育学」は「教育」という対象を分析する科学ではなく、「教育」という営みの内在的構成要素である。 これに対して「教育社会学」は「教育」を外的な対象とし、その客観的な分析を標榜する。しかし素朴なタイプの「教育社会学」=「社会学的教育分析」は「教育」という対象の実在性も、「社会学」という方法の堅固さも疑わず、「社会学」によって「教育」を分析しようとする。 しかし第一に、そもそも「教育

    日本のポストモダン教育学の原点? - shinichiroinaba's blog
  • 声と集団の難しさ - Freezing Point

    「だれでも受け入れる集団」「全面受容」は、関係を分節する声を抑圧する。 あるスタイルの声しか認められない(聞いていない)。 無能力者の受け入れは、存在を受け入れる代わりに、相手の声を拒絶している(参照)。 けっきょくは自分のほうが強いことを確認し、弱者の存在を全面受容することで、完璧な声がアリバイづけられる(弱者の声は存在のレベルにしかない)。 弱者人も自分を正当化するのに、そういうロジックを使う(無能力な自分の存在を、自分の声のアリバイにする*1)。 知識人には、《つながり》をどう維持するかについては何の自覚もない。 自分たちの持ちよる声の態勢を疑わず、そこに問題の焦点があることに気づいていないので、彼らの提案は「自分」を自意識にしている*2。 声と集団の関係*3に気づいていない。 既存集団は、自分たちの声の態勢を決めてしまっている*4。 「私の集団こそが全面的に正しい」というイデオロ

    声と集団の難しさ - Freezing Point
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    ishikawa-kz 2009/12/28
    「その危機のスタイルは改編できないか?」「「全面受容」は、関係を分節する声を抑圧する。 あるスタイルの声しか認められない(聞いていない)。」
  • 忌野 清志郎とオーティス・レディング(校正3最後の方に加筆音楽を入れ替える): 彦坂尚嘉の《第41次元》アート

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    ishikawa-kz 2009/11/12
    忌野 清志郎とオーティス・レディング
  • かりかりのトーストに、柔らかいバターを塗りつけるような - Freezing Point

    岡崎乾二郎氏の作品集『ZERO THUMBNAIL KENJIRO OKAZAKI』をめぐるエントリー: 「蜜と眼」(みつばちの箱) キャンバスはパンをトーストにするサイズに統一されていて、まるでバターを塗る行為から連鎖が生まれ作品に転じていく。これだけでわたしはお腹いっぱいになるような、豊かな感覚が体全体に充実感として広がっていくのを感じた。 少し日語がおかしいですが、それがむしろ体の快感に忠実に見えてしまいます。 同じ感覚を見つけたようでうれしかった。 この画集は、手元に置いてよく観なおしています。 「ブラッシュストローク」 永瀬さん: 改めて「ボルテージとテンション」について考えたのだけれど、これがある程度「身体性」に関わる問題系である、という連想はすぐに働く。そして「身体性」は絵画においてブラッシュストロークに連結される、という素材が先の「組立」対話企画〈筆触・イメージ・身体〉に

    かりかりのトーストに、柔らかいバターを塗りつけるような - Freezing Point
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    ishikawa-kz 2009/10/28
    「政治やコミュニティの体質を、こういう「作品を批評する用語」で語れないだろうか、などと考えました。 なんというか・・・つるつるで、お互いに言葉で作業し直すことを許さないような人間関係って、あると思う」