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研究と哲学に関するishikawa-kzのブックマーク (12)

  • ポール・リクール 著 『イデオロギーとユートピア』 - 新曜社通信

    ポール・リクール 著 ジョージ・テイラー 編 川﨑惣一 訳 『イデオロギーとユートピア――社会的想像力をめぐる講義』 11.06.10 A5判504頁・定価 体5600円+税  ISBN 978-4-7885-1235-1 6月1日配 発売は6月3日 書はポール・リクールのLectures on Ideology and Utopia, Ed. George H. Taylor, New York: Columbia University Press, 1986の翻訳である。翻訳にあたっては、内容の読解および翻訳の大胆さという点で、フランス語版(L'ideologie et l'utopie, Trad. Myriam Revault d'Allonnes et Joel Roman, Paris: Editions du Seuil, 1997)が参考になった。なお、副題は邦訳のオ

    ポール・リクール 著 『イデオロギーとユートピア』 - 新曜社通信
  • スピノザ『エチカ』に他者は存在しない? 國分功一郎氏のレスポンス

    四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse 僭越ながら個人的見解を申し上げさせて頂くと、『神学政治論』のメインは聖書解釈学であり、宗教思想ではないと思います。むしろ宗教思想なるものを政治の前で封印するものかと思います。また、『エチカ』には他者は徹底的に存在しないというのが特徴ではないかと。@naoshiy 2011-02-26 16:40:25

    スピノザ『エチカ』に他者は存在しない? 國分功一郎氏のレスポンス
  • 共生の現代哲学――門脇俊介記念論集 (UTCP Booklet 18) | 刊行物 | University of Tokyo Center for Philosophy

    目次:ダウンロード 序文のかわりに 小林康夫:ダウンロード 第一部 行為・知覚・自己――現代哲学の共生の構図 意図的行為は理由の空間に含まれるのか?――意図的行為における因果・表現・制御 原塑:ダウンロード 知覚の概念主義の行方 古田徹也:ダウンロード 門脇俊介とドレイファスはどこで分かれたか――ハイデガーと認知科学の対話を通して 吉田恵吾:ダウンロード 和辻哲郎の倫理学における「信頼の行為論」について――ハイデガーとの対比から見る日常性における共生のあり方をめぐって 飯嶋裕治:ダウンロード 徳と行為 文景楠:ダウンロード 汝自身であるものになれ――『存在と時間』における〈自己〉の習得 西山達也:ダウンロード 第二部 ケア・寛容・共生――共生の哲学の展開 看護行為の時間――西村ユミとハイデガー行為論の拡張 村上靖彦:ダウンロード それぞれに自分らしい寛容と共生――門脇俊介と多文化主義の哲学

  • 知覚における算術の誕生 (4) - 現在思想のために

    メルロ=ポンティには、当初から、知覚主義による科学的認識の基礎づけという哲学的モチーフがあった。(彼がこのモチーフを獲得し生涯にわたりこれを堅持したことについては――知覚に着眼したのは彼のオリジナルな洞察だが――フッサール現象学の大きな影響を見ることもできる。)この問題について彼は『知覚の現象学』(1945年刊)でかなり立ち入った議論をおこなっている。 だが後年に、彼は、ここでの議論が不十分だと自覚することになった。この間のいきさつについては彼自身の証言がある。コレージュ・ドゥ・フランスの教授立候補に際して執筆された報告書である(‘Un inédit de Merleau-Ponty,’ Revue de Métaphysique et de Morale, no 4, 1962, dans Merleau-Ponty, Parcours deux, Verdier, 2000〔「メルロ=

  • 知覚における算術の誕生 (5) - 現在思想のために

    背負った課題を解決しようとメルロが傾けた努力ははたして報われたのか、初期のメルロの構想が後期でほんとうに新たな展開をなしとげえたのか、それを訊ねなくてはならない。繰り返しになるが、彼の初期の「表現論」から引き出されるいくつかの論点が彼の戦略にたいしてどのように関連するかを確認しておこう。 彼は〈表現〉を身体性に根ざすものとして捉えた。生後間もない幼児が養育者に微笑むことに示されるように、自意識の成立しない段階における身体的所作としての表情こそ表現の原型であり、ここからはまっすぐな経路が発達した子供の身体運動がかもす表情性につながっている。やがて子供は事物を指さしながら発語によってその名を呼ぶことになるだろう。 それゆえ第一に、表情ある身振りから発語が創発される事態におのずと語らせ、それを現象学的記述ですくい取る必要があるだろう。この目的には遣い古された哲学用語は役に立ちそうもない。メルロが

    知覚における算術の誕生 (5) - 現在思想のために
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2010/11/05
    恐らく非常に大切な話をされている「メルロの知覚論で重要なのは、〈表現〉としての知覚が――他の表現の場合大抵そうなのだが――知性を原理としないこと、反対に知性の基礎が知覚経験にある、という洞察である」
  • 知覚における算術の誕生 (2) - 現在思想のために

    メルロ=ポンティが、1948年に、7回連続のラジオ講演を行った記録がある(Maurice Merleau-Ponty, Causeries 1948, Seuil, 2002)。それ以前に、彼は博士論文を構成する二つの著作をすでに刊行していた。とくに主論文「知覚の現象学」が1945年に出版されるや、彼の名は一躍多くの読者に知られることになった。メルロの他にこの番組にはジョルジュ・ダヴィ(未開人の心理学)、エマニュエル・ムーニエ(性格心理学)、マキシム・レネル=ラヴァスチヌ(文学における心理学的主題)が参加している。メルロが最年少者である(40歳)ことは注意していい点かもしれない。このラジオ講演は、初期のメルロの思想をかみくだいた語り口で述べている、という意味で貴重であり、後期のメルロ=ポンティ哲学との微妙だが決定的な違いをここから読み取ることができる(邦訳は近く刊行の予定)。まずある個所の

    知覚における算術の誕生 (2) - 現在思想のために
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    ishikawa-kz 2010/10/26
    勉強になる連載「メルロは明らかに情報である光を知覚する――何らかの意味での――主体を想定している。これに対して、現代物理学においては、この種の主体は一見して理論的役割を果たしていない」
  • シュテンガー「時間の諸次元と力動性:システム論に対する現象学の批判」2009-07-09 - 呂律 / a mode distinction

    何もする気が出ないときの現象学。ロンバッハとルーマンの時間論の比較。 ゲオルク・シュテンガー(2008) 「時間の諸次元と力動性──システム論に対する現象学の批判」 [原文]/[山口一郎 抄訳] in 『フッサール研究』 第6号:特集「応用現象学の展開」 内的時間意識(フッサール) 現存在の時間性(ハイデガー) 時間の力動的生起──構造現象学(ロンバッハ)とシステム論(ルーマン) 第2回応用現象学会議*の記録。 http://www.let.osaka-u.ac.jp/~cpshama/care/pdf/2nd_Conference_Applied_Phenomenology.pdf またつまらぬものを読んでしまった。 著者の指摘のうちのいくつかは、限定つきでなら「正しい」とは思う。 たとえば、ルーマンは 「志向性」の働きを──そしてそれだけを──重視しすぎており、それどころか、志向性こそ

    シュテンガー「時間の諸次元と力動性:システム論に対する現象学の批判」2009-07-09 - 呂律 / a mode distinction
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    ishikawa-kz 2009/07/10
    「構成分析という課題)は、それ自体やはりすでに「社会分析」の重要な課題なのだから、その点からすれば、ルーマンの議論はやはり擁護しがたい。」
  • Testimony

    ヨハネの福音書(第14章15~31節) ここの主題は、パラクレートス(聖霊)である。ブルトマンは、聖霊についてどう考えているのか。しかし、非神話化を提唱する彼が、意外にも「霊」という言葉を使う。彼は言う、「教会にとってイエスがそれであったものに霊がとって代わるのである」と。しかし、同時にそれは、「強力な身体的または心霊的な体験によって証明される呪術的な力でも、教会に対して力を行使し、教会は無責任にただ待っていさえすればよいような力でもない。むしろ霊は教会において言葉の宣教を推進する力である」と。そればかりでなく、教会は、そこに働く霊によって、自ら主イエスの体として実存するのである。つまりブルトマンが言うように、「宣教については教会に責任がある。その責任を果たすことによってだけ、教会は啓示の言葉としての言葉の力を体験する」のである。ブルトマンは、主イエスとその御体としての教会の関係をもう一度

    Testimony
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    ishikawa-kz 2009/06/17
    エックハルト『人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、神のために神を捨て去るということである。』
  • Lévinas, Emmanuel『存在の彼方へ』

    ■Lévinas, Emmanuel 1974 Autrement qu'être ou au-dela de l'essence, The Hage: Martinus Nijihoff. =199907 合田 正人 訳 『存在の彼方へ』,講談社学術文庫,477p. ISBN-10: 4061593838 ISBN-13: 978-4061593831 1400+ [amazon]/[kinokuniya] ※ w/le03, p *一般注記:『「存在するとは別の仕方で, あるいは存在することの彼方へ』(朝日出版社 1990年刊)を全面改訂したもの ■内容 (「BOOK」データベースより) フッサールとハイデガーに現象学を学び、フランスに帰化したユダヤ人哲学者レヴィナス。戦争の世紀の証人として生き、「平和とは何か」の問いを極限まで考察したレヴィナスは、書において他者への責任とは他者の身

    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/06/17
    バウマン理論+立岩のレヴィナス見解「心情として深刻に受け止めたりはできないとしても、とるにたらない問題だとして除去してしまうのはよくないと思える。そんなところからどう考えるか、と私の場合にはなる」
  • 本文

    レヴィナスにおける哲学と宗教 --レヴィナス「神と哲学」を読む (中山 元) レヴィナスにおいて、哲学と宗教がどのような関係にあるかを考えるには、『超越と知解可能性』の他に、この「神と哲学」が重要な位置をしめている。この論文は『観念に来れる神』に収められているものだが、まだ邦訳がないので、さまざまな問題を考えながら読んでみたいと思う。 ★存在論神学批判 一九七五年に発表されたこの論文は、アリストテレスを意識した「哲学しないためには、また哲学しなければならない」という文で始まっている。哲学の必要性を再確認するこの文章は、明らかにデリダのレヴィナス批判に呼応したものである。 デリダは「暴力の形而上学」の最後近くで、「一人のギリシア人」の言葉として、この「哲学しないとしても、やはり哲学しなければならない」というアリストテレスの『形而上学』の言葉を引用して、レヴィナスの「幻想」を批判した。デリダの

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    ishikawa-kz 2009/06/14
    「レヴィナスは哲学という営みも、この語り直すという行為の一つであると考える」
  • 馬場靖雄:正義の門前#0

    稿の直接の狙いは、デリダとルーマン(脱構築とオートポイエティック・システム理論)による正義概念の扱いを、比較検討することにある。しかし同時にその作業を通して、社会学理論一般の方向性に関する結論をも引き出してみたいとも考えている。その結論は、特に「批判的」であることを標榜する社会学理論にとって、重要な意味をもっているように思われる。あるいは、デリダとルーマンの議論がもつ、「批判理論」としてのポテンシャルを計測することが、稿の目的である、と言ってもいいかもしれない。ただしもちろん、デリダとルーマンのどちらがより「批判的」であるか、というように問題を設定するつもりはない。むしろ、それぞれの議論の内部において、批判的スタンスを可能にし励ましてくれる要素とともに、批判的社会学理論を袋小路へと導く危険も併存しているのではとの推測を、出発点とすることにしたい。 とりあえず法と正義に関するデリダの議論

  • シンボルの海

    <シンボルの海>へようこそ! 30億年のはるか昔、海のなかで生まれた私たちの祖先は、すでに記号機能を営む生命体であった その後、いくたの変容を重ねながら、この生命体は現在にいたっている あるとき、私たちはみずからを「人間」と称するようになった ――<人間>が誕生した瞬間である それにしても、人間とは誰なのだろうか、生命はどこから来たのだろうか <シンボルの海>――それは<ホモ・シグニフィカンス>つまり<記号機能を営む人>という存在論を拠りどころにしつつ、生のための哲学思想を模索するホームページ

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    ishikawa-kz 2009/03/21
    菅野盾樹「シンボルの海」
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