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ブックマーク / namdoog.hatenadiary.org (13)

  • 詩は認識を遂行する記号システムである - 現在思想のために

    『知覚の哲学』(ちくま学芸文庫、7月10日刊行)でメルロ=ポンティがマラルメに論及しながら、〈詩的認識〉について述べているところがある。該当する箇所を引用しよう。 言葉は自然の事物を表意するためにつくられたものです。すでにかなり以前に、マラルメは言語の詩的用法を日常談話から区別しました。おしゃべりな人が事物の名を口にするのは、ただ「何が話柄であるか」を言うために、手短に事物を指すためでしかありません。これとは反対に、詩人は――マラルメによれば――事物のふつうの名称を別の名称と取り換えます。ふつうの名称は事物を「周知のもの」として指示しますが、詩人はこの種の名称を、事物の質的構造を記述し、私たちをこの構造にはいり込ませるような名称で代替するのです。世界について詩的に語るということは(……)、ほとんど発言せず、黙っていることです。実際、マラルメが沢山の詩篇を書かなかったのはよく知られています

    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2011/06/02
    同感です「詩とはいかなる意味でも地理的概念ではありえず、行動的概念ではないだろうか」
  • ユクスキュル・ルネッサンス (7) - 現在思想のために

    ユクスキュルの環世界論の眼目をこれまで――必ずしも委曲を尽くすことはできなかったが――議論してきた。例えば、 環世界論が科学のパラダイム転換をもたらしたこと、簡単に言うなら、物理化学的基礎に立つ生物研究から、<情報>や<記号>を基礎概念とする生活体の研究への転換(<記号論的転換>)である。 生物研究へ主体概念を導入したこと。しかもそうすることによって古典的な<主体>概念の更新を図ったこと。 環世界論が<内部存在論>を基礎とすること。(この点は古めかしい認識論にとってかわる新たな方法論を要請するだろう。) 環世界論が、各々の生物種に対応する環世界の相対主義を招来すること。しかし人間は単に環世界に生きているのみならず、それを限りなく超えてゆく<世界>へ開かれていること ――これらの問題を急ぎ足で検分してきたのだった。 ところで以上のいわば系(コロラリー)〔すでに成立ないし証明された概念や命題か

    ユクスキュル・ルネッサンス (7) - 現在思想のために
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2011/05/10
    「生活体にとって出現する事物がつねに「意味のトーン」(Bedeutungston)をおびているという。例えば、人間が椅子に腰掛けようとして、このものと交信することによって、このものは「椅子のトーン」を奏でることに」
  • 臨床的眼ざしの誕生――医療の記号論 - 現在思想のために

    稿はかつての草稿に推敲を加えた改定版である。〕 記号学/記号論の構想は<医療>をとりこめるか 医療という社会的実践そのものが、パースのいう意味での記号過程(semiosis)にほかならない。この認識を多くの人はまだ共有してはいないようにみえる。たとえば緩和医療をとってみよう。多くの人は、医療のある特定分野としての「緩和医療」をなかば認識的でなかば技術的な実践の過程として捉えつつそれが実在するのを当然のこととして想定している。その後で、この過程を言説の舞台とした、この種の医療についての記号過程(会話やコミュニケーションなど)が成り立つ、と捉えているようなのだ。 ソシュール記号学の構想をいまいちど想いおこす必要がある。講義のなかで記号学についてソシュールが述べたことばをいささか長くなるが引用しよう。 (…)ラングはひとつの社会的制度であるが、これは他の政治的制度、法律制度などとはいくつかの

    臨床的眼ざしの誕生――医療の記号論 - 現在思想のために
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2011/02/08
    難しいけれど重要な問いがいくつもある文章に思えた。大変興味深い。「徴候への眼なざしがそれを〈症候〉と捉えること(症候の生成)はどのようにして可能だろうか。」
  • 知覚における算術の誕生 (8) - 現在思想のために

    こうして見てくると、音階が音楽の<スタイル>を決定する最大の要因であることが分かるだろう。あらためてスタイルとは何だろうか。 この概念は基的に存在論的概念として理解されなくてはならない。styleはたいてい「様式」や「文体」などと訳されるが、語源をさかのぼれば、ラテン語のstilusつまり「蝋をひいた板に文字を刻みつけるペン」をいう言葉だった。これがひいては「記された文章」、さらに「文章を書く様式」を意味するようになったのである。 初め作家の表現様式つまり文体を意味したスタイルは、やがて、一方では個人の行動様式や暮らし方(「ライフスタイル」)を、他方ではあらゆる藝術へと適用される概念となっていった(たとえば、ある画家のスタイル、ダンサーのスタイルなど)。さらにこの概念は個人から集団および歴史的な意味での時代まで適用範囲を拡大することになる。たとえば、「未来派のスタイル」、「バロック様式」

  • 知覚における算術の誕生 (7) - 現在思想のために

    前期のメルロ=ポンティの思想において、セザンヌの画業に示された真理とは、主体としての身体ならびに知覚の認識論的かつ存在論的優位ということだった。具体的にはセザンヌの色彩観にメルロは多大の影響を受けている。たしかに物象(もの)が見えるのは輪郭線によってそれが空間のある場所に限定されているからである。こうした事態はどのようにして可能なのか。これがセザンヌの問いだったしメルロの問いでもあった。 知覚のただなかに出現する物象の数的同一性(一個のリンゴ、一の鉛筆…)は――セザンヌが身をもって了解したように――知性が対象に付与したものではなく、感性の深みで捉えられた色彩の横溢そのものに過ぎない(「色彩を塗るにつれて、デッサンも進むのだ」)。それでは光と色彩がどのようにして輪郭をともなった形態に転換するのだろうか。 この問いに応じるには、少なくとも二つの論点を解明する必要がある。1つには、色彩から形態

    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2010/12/03
    「セザンヌは「隣接しながら異なった多少明度の強いいくつかの色調を使って、それらをわずかに重なり合う小さなタッチで並べながら、その立体感の効果」をかもそうとしたのだった」
  • 知覚における算術の誕生 (6) - 現在思想のために

    科学的認識の知覚主義による基礎づけの問題を攻略するために彼が構えた戦略は、身体運動(表情ある身振り)から言語行動が開花するプロセスを跡づけ、これと並行して身体運動としてのアルゴリズム(数えること=算術)から数学への展開を記述することを基軸としたようである。 実際、こうした主題にみちびかれてメルロが筆を執った未完の遺稿が『世界の散文』(Le Prose du monde, Gallimard, 1969.; 『世界の散文』(滝浦静雄・木田元訳)、みすず書房、1979年)である。従来に倍する言語への関心がうかがえる重要な論考であり、言語と算術(アルゴリズム)のかかわりに繰り返し言及の跡が認められるものの、戦略が功を奏したとは遺憾ながら言い難い。 たとえば、言語の創出は解明すべき問題というより議論の「前提」になってしまっている。〔言語の生成については私たちの考え方をすでに何度か明らかにしている。

    知覚における算術の誕生 (6) - 現在思想のために
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2010/12/03
    「したがって、記号系の発動する機会にはつねに何かが発生するのが目撃されるはずである。(個人的な習慣の形成、テクノロジーの発達、藝術的表現の展開、その他」
  • 知覚における算術の誕生 (4) - 現在思想のために

    メルロ=ポンティには、当初から、知覚主義による科学的認識の基礎づけという哲学的モチーフがあった。(彼がこのモチーフを獲得し生涯にわたりこれを堅持したことについては――知覚に着眼したのは彼のオリジナルな洞察だが――フッサール現象学の大きな影響を見ることもできる。)この問題について彼は『知覚の現象学』(1945年刊)でかなり立ち入った議論をおこなっている。 だが後年に、彼は、ここでの議論が不十分だと自覚することになった。この間のいきさつについては彼自身の証言がある。コレージュ・ドゥ・フランスの教授立候補に際して執筆された報告書である(‘Un inédit de Merleau-Ponty,’ Revue de Métaphysique et de Morale, no 4, 1962, dans Merleau-Ponty, Parcours deux, Verdier, 2000〔「メルロ=

  • 知覚における算術の誕生 (3) - 現在思想のために

    一般相対性理論の確立には非ユークリッド幾何学が重要な役割を果たした。19世紀に非ユークリッド幾何学が構想されるまで、幾何学といえば、ユークリッド幾何学のことに決まっていた。ギリシャのユークリッド(前330年〜前275年頃)が著書『原論』として大成した幾何学である。 この『原論』において示された五つの「公準」のうち五番目で最後の公準がまわりくどい表現をしているために、多くの人に不審をいだかせ、公準としての自明さに疑いが投げかけられた。これは「平行線の公準」と呼ばれるもので、「二直線と交わる一つの直線が同じ側につくる内角の和が二直角より小さいならば、二直線をその側に伸ばせばどこかで交わる」ことを述べたものである。 19世紀になって、この平行線の公準を別の公準に取り換えても整合的な幾何学が成り立つことが証明されるにいたった。数学者たちは、実際に、さまざまなタイプの非ユークリッド幾何学を構成してみ

    知覚における算術の誕生 (3) - 現在思想のために
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2010/11/05
    少し難しいですが興味深いです「理性を知覚へばらす方向に問題への答えがあるのではなくて、知覚から身振りと言葉を通して理性まで上昇する方向にそれがあるから」
  • 知覚における算術の誕生 (5) - 現在思想のために

    背負った課題を解決しようとメルロが傾けた努力ははたして報われたのか、初期のメルロの構想が後期でほんとうに新たな展開をなしとげえたのか、それを訊ねなくてはならない。繰り返しになるが、彼の初期の「表現論」から引き出されるいくつかの論点が彼の戦略にたいしてどのように関連するかを確認しておこう。 彼は〈表現〉を身体性に根ざすものとして捉えた。生後間もない幼児が養育者に微笑むことに示されるように、自意識の成立しない段階における身体的所作としての表情こそ表現の原型であり、ここからはまっすぐな経路が発達した子供の身体運動がかもす表情性につながっている。やがて子供は事物を指さしながら発語によってその名を呼ぶことになるだろう。 それゆえ第一に、表情ある身振りから発語が創発される事態におのずと語らせ、それを現象学的記述ですくい取る必要があるだろう。この目的には遣い古された哲学用語は役に立ちそうもない。メルロが

    知覚における算術の誕生 (5) - 現在思想のために
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2010/11/05
    恐らく非常に大切な話をされている「メルロの知覚論で重要なのは、〈表現〉としての知覚が――他の表現の場合大抵そうなのだが――知性を原理としないこと、反対に知性の基礎が知覚経験にある、という洞察である」
  • 知覚における算術の誕生 (2) - 現在思想のために

    メルロ=ポンティが、1948年に、7回連続のラジオ講演を行った記録がある(Maurice Merleau-Ponty, Causeries 1948, Seuil, 2002)。それ以前に、彼は博士論文を構成する二つの著作をすでに刊行していた。とくに主論文「知覚の現象学」が1945年に出版されるや、彼の名は一躍多くの読者に知られることになった。メルロの他にこの番組にはジョルジュ・ダヴィ(未開人の心理学)、エマニュエル・ムーニエ(性格心理学)、マキシム・レネル=ラヴァスチヌ(文学における心理学的主題)が参加している。メルロが最年少者である(40歳)ことは注意していい点かもしれない。このラジオ講演は、初期のメルロの思想をかみくだいた語り口で述べている、という意味で貴重であり、後期のメルロ=ポンティ哲学との微妙だが決定的な違いをここから読み取ることができる(邦訳は近く刊行の予定)。まずある個所の

    知覚における算術の誕生 (2) - 現在思想のために
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    ishikawa-kz 2010/10/26
    勉強になる連載「メルロは明らかに情報である光を知覚する――何らかの意味での――主体を想定している。これに対して、現代物理学においては、この種の主体は一見して理論的役割を果たしていない」
  • 知覚における算術の誕生 (1) - 現在思想のために

    知覚はすでに表現――もちろん言語以前の――であり、それを「黙した言葉」と比喩できるかもしれない。言葉は様々な方向に伸長して文学、科学、その他、あらゆる言語表現の営みとして綺羅を競っている。だが人間が能くする表現は言語的な種類にはかぎられない。私たちは、絵画、音楽、ダンスなど、あらゆる種類の非言語表現をもっている。しかしながら、この指摘は、表現に関する根事態の単に半面を告げるにすぎない。残りの半面、それはこの事態が可逆性の原形であるということだ。現象学者メルロ=ポンティは身体の存在様態をこの可逆性(revérsibilité)に見出した。 卑近な経験の事実としてこういうことがある。手を差し伸べ机にさわるとただちに机が手に触れるのを感知するだろう。触れること(toucher)は、いかなる瞬間にも、触れられること(se toucher)に打ちされた形式でしか成立しない。<私が机に触る>という一

    知覚における算術の誕生 (1) - 現在思想のために
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2010/10/10
    生のものが露出するということは危険なことでもある?「当の知覚物からそのカテゴリーが剥奪される事態が招かれないものではない。それが危険である。もちろんあるカテゴリーが剥がされれば、ただちに別のカテゴリ」
  • フーコー・ブッダ・グッドマン (11) - 現在思想のために

    ――自己の技法から自己が立ち現れる―― 1984年に亡くなったフーコーは、それに先立つ数年の間、精魂をかたむけてある研究テーマに挑んでいた。それが「自己の技法(テクノロジー)」の問題系だったことは、よく知られている。 この主題を筆者なりに整理し筆者の問題圏のうちに位置づけるために、ここでは以下の資料を参照したい。すなわち、コレージュ・ド・フランス講義要旨ならびにヴァーモント大学研究セミナーの記録である。(もちろんこの間に断続的に執筆されていた――この表現は必ずしも正確ではないが他に云いようもない――『性の歴史』第2巻があるし、バークリ大学を初めとする諸大学や研究所における講演や演習の記録、いくつかのインターヴュー記事などを参照することができるが、ここではすべて割愛する。) まずコレージュ・ド・フランス講義要旨の題目は以下のとおりである。 1) 主体性と真理(1980-81年度)(『コレージ

    フーコー・ブッダ・グッドマン (11) - 現在思想のために
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    ishikawa-kz 2010/08/31
    「自己の技法は鍛練ないし修練(askēsis)という語で表わされる営為の総体を含む。なぜなら、他者と立ち混ざって生きるほかないわれわれはつねに競技者あるいは戦士の要素を抱え込むからである。」
  • グッドマン哲学への最良のコメントを読んだ - 現在思想のために

    ここに採りあげるのは、心理学者ジェローム・ブルーナー(J. Bruner)の『可能世界の心理』(田中一彦訳、みすず書房)という一冊である。(詳しく言うと、特に第七章で集中的にグッドマンが論じられている。キャロル・フィルドマンとの共同執筆。)これまでも哲学者――そこには大家も若手も含まれる――がグッドマンの記号主義哲学に加えてきた発言は少なからず参照してきたが、この高名な心理学者の文章ほど記号主義の核心を言い当てたものはないという印象をもった。重要な論点をおもうままにとりあげ筆者サイドからすこしばかりメタ・コメントを付け加えておきたい。 グッドマンの思想のポイントが「構築主義」(constructionism)にあることは誰でもが言うことだ。しかし問題は、<世界>あるいは彼のいう<ヴァージョン>が①何に基づいて②どのように「構築」されるか、という点であろう。 はじめの点についてグッドマンは、

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