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ブックマーク / minik.hatenadiary.jp (11)

  • being capable of adequate self-description - memoranda

    「適切に自己を記述することができること」――H. サックスによると、人間とはそのようなことができる動物であるそうだ。 ともするとこうした能力の生物学的基盤などを連想しがちな言い方ではあるけれど、そうした連想の手前で、まずは自分の行っている事柄を記述できるということ、しかもその記述が適切であること(もっといえば、必然的に適切と見なさざるを得ないこと)について、やはり自分としても、再度、踏まえておく必要があるように感じている。

    being capable of adequate self-description - memoranda
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2011/11/09
    「適切に自己を記述することができること」――H. サックスによると、人間とはそのようなことができる動物であるそうだ。
  • 病院の外で――お悔やみに関する覚え書 - memoranda

    Sudnow, D., 1967=1992『病院でつくられる死――「死」と「死につつあること」の社会学』せりか書房. 表題の論文は、この書の第6章。 今年度の大学院での授業は、病気や死に関係する質的研究をあれこれ読みながら、ディスカッションすることを中心に行っている。ちなみに前回はグレーザー&ストラウスの『死のアウェアネス理論と看護』の第5章「相互虚偽」の儀礼ドラマ」。そして今回はサドナウの『病院でつくられる死』の第6章「病院の外で」。 同じく病院およびその周辺における死を主題としたエスノグラフィーとはいえ、スタイルは大きく異なる。 ストラウスらのものが、ゴフマン的なアナロジーを通じて死の認識をめぐる相互行為のとる特徴をあえて際だたせていたのに対し、サドナウのものは死という出来事が親族や仲間といった諸々のカテゴリーと結びつけられたところに成立している実践をねちねちと何度も旋回しながら記述し

    病院の外で――お悔やみに関する覚え書 - memoranda
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2011/10/28
    「サドナウのものは死という出来事が親族や仲間といった諸々のカテゴリーと結びつけられたところに成立している実践をねちねちと何度も旋回しながら記述していく。」
  • 社会性の障害? - memoranda

    R. ウィングらによると、自閉症スペクトラムの主要な障害の一つとして「社会性の障害」がある(その他に「コミュニケーションの障害」と「想像力の障害」)。この社会性の障害というのは、どう考えたらよいのだろうか、少し疑問がある。それをきわめてラフに言葉にしてみる。 こうした障害は、日常的な社会生活の形式からの逸脱として、そしてその逸脱が状況特有の問題や年齢などによって理解できないときに、障害として観察可能になる。つまり社会性の障害は、そのつどの具体的な社会的状況とその組織方法を地としながら、その中に参与している特定の者に帰属される形で、存在している(この点は、その他の障害についてもある程度あてはまるだろう)。そして自閉症の原因説明の試みや療育の試みは、その根底においてこのような帰属を前提にしている。 これらの営為は、それはそれできわめて重要なものだろう。そしてその意義は十分に尊重したい。けれども

    社会性の障害? - memoranda
  • 構造化された直接性(?) - memoranda

    Leudar, I., Sharrock, W., Hayes, J., Truckle, S., 2008, Psychotherapy as a "structured immediacy" Journal of Pragmatics, 40, 863-885. この論文の目的は、精神分析から行われる心理療法セッションにおいて行われている事柄を、その実践の内側から記述していくこと。言いかえるとそのセッションが心理療法の実践としてどのように組み立てられているかを把握することが目的であって、会話的行為として把握することが目的ではない。 こうした議論をしていくさいに、著者たちがヒントとしているのは、行為は複数の正しい記述を受けうるというオースティンやアンスコムによる論点である。発語行為がある適切な文脈ではすなわちある発語内行為となること、あるいはポンプから水をくみ出すことが、参照文脈を広げて

    構造化された直接性(?) - memoranda
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2011/07/24
    いかなる「理論・考え方」によってその実践は組み立てられているかを心理療法の場面にみる「行為の同一性と文脈とは切り離せないリフレキシブな関係」
  • 「下働きとしての哲学」としての、自閉症の現象学 - memoranda

    Zahavi, D., 2005, "Theory of mind, autism, and embodiment," Subjectivity and Selfhood, MIT Press, 179-222. 自閉症について、S. バロン−コーヘンらによってなされている心の理論による議論について、その基礎的概念の検討を通じて批判をしていく論文。論旨はとても明快。そして基的には、強く同意。ただし大きな不満もある。それは最後にしるす。 簡単に言えば、他者理解や自己把握は、心の理論なる装置を用いて他者や自己の行動を説明したり・予見することを通じて可能になっているというのが、心の理論論者。つまりは観察可能な振る舞いと観察不可能な(それゆえ理論的に説明されねばならない)内部との二元論、そしてそれを橋渡しする形で内部を説明してくれるのが心の理論、ということ。そのうえで定型発達者はこの理論を持って

    「下働きとしての哲学」としての、自閉症の現象学 - memoranda
  • 科学(者)のなかの哲学(者) - memoranda

    哲学の生存戦略とそのアジェンダーとの副題をもつ論文の中の一節から。 科学者も探求の或る局面で、複数のリサーチ・プログラムの優劣を論じたり、ある結果を発見といってよいかどうかを考えたり、これまで使ってきた概念を整理したり、複数の理論の相互関係を考えたりといった、「哲学的・認識論的」な考察や論争を行うことがある。重要なことは、こうした「哲学的」「思弁的」な作業と、実験、観察、シミュレーションの計画を立てる作業、プログラムを組む作業、データを集める作業...は連続しているということだ。それは哲学者の専売特許ではない。認識論はメタ科学ではなく、科学内部の活動と考えるべきだ。 私はこの点をエスノメソドロジーから学んだ。エスノメソドロジーの探求の方法は、「知っている」「発見」「説明」「確実だ」というような認識論的語彙が科学者の日常的研究活動にどのように組み込まれ、働き、科学者に共通の「科学的事実」を構

    科学(者)のなかの哲学(者) - memoranda
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2011/03/31
    「科学内部で生きられている認識論」
  • アイデンティティ・と・政治 - memoranda

    アイデンティティにもとづく政治について述べるなかでのJ. バトラー。「ユダヤ人を愛そうとも憎もうとも、まさに同じ信用ならない操作に荷担している」『みすず』589号, 6-24頁。 私たちは、考察の対象が実際にはパレスティナにとってのある新たな政治秩序であるにせよ、(二民族一国家にユダヤ人として賛成するなどといった形で)アイデンティティの問題に直面しているのです。私たちの政治の対象はアイデンティティではなく、この観点からすると、アイデンティティを目指す政治(politique identitaire)でもありません。そうしたこと〔アイデンティティに関する事柄〕を定式化するにあたって人がアイデンティティを占有したりしなかったりする手法、アイデンティティというカテゴリーを動員する手法、これこそが興味深いものなのです(7f.)*1。 そのような例として、アイデンティティというカテゴリーと政治的立場

    アイデンティティ・と・政治 - memoranda
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2011/02/24
    「アイデンティティというカテゴリー自身と政治的立場や所属関係との結合を自明なものと見なすこと事態に視線が向けられていく。」
  • 顔 - memoranda

    最近はあちこち、病院や保健所に挨拶に行くことが多い。おもに自分の調査だったり、学生の調査の依頼だったりするが、そんなとき、どことなくアレって感じで投げられる視線が気になる。某メディア露出のせいか、それとも過剰な自意識のせいなのか。 それはともかく、Maynardによる自閉症関連の論文に目を通し、整理する。そのほか、『音楽嗜好症』を暇を見つけて読み始める。 音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々 作者: オリヴァーサックス,Oliver Sacks,大田直子出版社/メーカー: 早川書房発売日: 2010/07/01メディア: 単行購入: 3人 クリック: 70回この商品を含むブログ (33件) を見る

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  • 小宮友根2005 - memoranda

    「「価値判断」の分析可能性について--社会学における記述と批判」『年報社会学論集』18, 241-251. 読みながらいろいろ考えさせられた(著者からすると余計なことなのかもしれないが)。以下、的はずれかもしれないけど、それを記してみる。 社会学の記述は、社会内の現象のすべてを客体とする記述であろうとしてきた。そうした理想は、自らの記述になお残る価値判断性を探しだし、そのことによってその記述をも自らの客体へと繰り込んでいくことによって/として、目指されてきたと言える。社会学の社会学が生まれるのは、こうした過程の痕跡のようなものと言えるかもしれない。 ちなみにだからこそ、そしてその限りで、社会学の社会学はどうにも貧困なものになってきたように思うのだけれど、それは置いておいて、ともあれこうしたことは、その裏面(というかむしろ表面)として、価値判断を脱する記述というものを社会学は方法論として求め

    小宮友根2005 - memoranda
  • Ian Hacking, 2004 - memoranda

    "Between Michel Foucault and Erving Goffman: Between discourse in the abstracut and face-to-face interaction," Economy and Society, 33, 277-302. 主な登場人物は、サルトルとゴフマン、フーコー。 妙な取り合わせにもかかわらず表面的刺激に欠け(相変わらず)、有益な論文。足場をフーコーにおきながら人間を作り上げる諸方法を研究していくという著者イアン・ハッキングの方針にとって、使えるところをゴフマンから拾っていくという、プラグマティックな態度が基調である。 人間を作り上げる諸方法についての研究にとり焦点となるのは、自己とその経験およびそれらのあり方の選択(肢)であり、またこれらに対する制約である。たしかに道具の存在や発明、発見、身体的特質や社会的環境といっ

    Ian Hacking, 2004 - memoranda
  • 自然発生的社会学 - memoranda

    Rose, E., 1960, "The English Record of a Natural Sociology," American Sociological Review, 25(2), 193-208. 著者については、初期エスノメソドロジーの歴史に一枚かんでいた人ということぐらいしか知らない*1。たとえばProceedings of the Purdue Symposium on Ethnomethodology*2にも登場しており、いくつか重要な指摘もおこなっている。ともあれ、こういった著者の主張について簡単にまとめてみると、こんな感じになる。 「人間の行為そのほかに関する日常語それじたいが社会学である」という論の論点は興味深い。そしてこの論点の根拠は、これらの日常語及びこれらが一部となっている命題が、人物や行為について述べており、かつこうした語彙の意味が秩序だっているから

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