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quatationに関するmassunnkのブックマーク (3)

  • ひきこもり臨床論としての美術批評 - Freezing Point

    斎藤環『アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房)刊行記念のトークショー、 斎藤環×岡崎乾二郎 「アートに“身体”は必要か」 を熟読した(掲載は『みすず(no.563)』2008年8月号)。 これを私は、美術批評であると同時に、ひきこもり臨床論として読んだ。 岡崎乾二郎の議論は、斎藤環の「発想のあり方」へのあからさまな批判なのだが、斎藤は最後までそれに気づいていないように見える。 私はこの対談を、ひきこもりや就労支援の関係者にこそ読んでほしい。 誰かの努力や存在が社会的に排除され、誰かがぬくぬくと「内側」にいることになっている*1。 そこに批評を口にするときの態度の違いは、そのまま支援案のちがいになる。 排除された努力や存在を受け止めるときに(あるいは無視するときに)、どんな発想が必要なのか。 作品であり、労働過程である私たちは、単に全面受容されるべきではない。 では、どんな厳しさが必要

    ひきこもり臨床論としての美術批評 - Freezing Point
    massunnk
    massunnk 2009/01/05
    アウトサイダーをひきこもりと結びつけるのはちょっと無理があるように感じるが、面白い斎藤環批判。けど斎藤環は本業医者だからしょうがないような気も…。
  • 精神の二つの型 - hidedayo日誌

    実家に帰って書棚の中から「ケインズとハイエク」をたまたま手にとって読み直す。書の中で気になったフレーズが出てきたので該当箇所を引用してみます。 学問的思考にたずさわる人間には二つの精神の型がある、とハイエクは述べている(「精神の二つの型」)。一つは「記憶型」とでも呼ぶことのできるタイプで、普通はこちらが幅を利かせている。この型の人は多くの書物を読み漁り、細々した事実や用語を頭の倉庫にいっぱい詰め込んでいる。臨機応変に在庫品の中から必要な知識を取り出し、学の既成の地図に沿ってうまくそれらを配置する。流行に敏感で、学の全領域に通じていなければ気がすまない。この型の精神にとっては在庫の新鮮さとその総量が勝負の決め手となるのである。 「記憶型」の精神に対置されるのが「混乱せる頭脳」である。前者が書いたりしゃべったりしている言葉を見聞きしても、その言葉はどこか上滑りしているという感じを持つ。彼らは

    精神の二つの型 - hidedayo日誌
    massunnk
    massunnk 2009/01/05
    「記憶型」と「混乱せる頭脳」
  • 「ダンス」(メモ) - Living, Loving, Thinking, Again

    批評空間 (第2期第22号) 作者: 浅田彰,柄谷行人出版社/メーカー: 太田出版発売日: 1999/06メディア: 単行購入: 3人 クリック: 8回この商品を含むブログ (6件) を見る Alain Badiou「思考のメタファーとしてのダンス」(守中高明訳)『批評空間』II-22、1999 pp.132-144 少し抜き書き; ニーチェの目にとって、ダンスの反対物とはいったい何か? それはドイツ、忌まわしきドイツのことであり、それについて彼はつぎのような定義を与えている――「服従と健脚」と。この忌まわしきドイツ質とは、軍隊の行進、つまり一列に並んだ鉄槌を打ち降ろすような身体であり、隷属したよく響く身体であるところの軍隊の行進である。すなわち、踏みならされる拍子の身体。それに対して、ダンスとは空気のようで乱れた身体、垂直的な身体である。それは、鉄槌を打ち降ろすような身体ではまった

    「ダンス」(メモ) - Living, Loving, Thinking, Again
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