![伊藤忠社員の拘束は中国が進める“近代化”の余波か?](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/59a1b1588600425d174c156a53a42fafaa49d0a9/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fbusiness.nikkei.com%2Fatcl%2Fgen%2F19%2F00002%2F021800094%2Ffb.jpg)
外国と日本を対比して、日本にあるものとないものを検討すると、いくつかの違いがあると考えている。 まず日本には自我がない。特にデカルトから始まってフランス革命のころにいわれた「近代的自我」がない。これは欧米と比較したときの違いである。 ヨーロッパに自我があるのはなぜか。ヨーロッパにも本当にどこまで自我があるか分からないが、ともかく人々は、それがある振りをしないといけない。デカルト以来「我思う、故に我あり」で通る社会だから、「思っていない」などということはできない。思った主体が「我」だから、投票をする権利がある。個人主義や民主主義の根本には、自我がなくてはならない。 それに対して、日本人には自我がない。一番よく表れているのが、最近、無宗教の葬式というのが流行していることだ。無宗教の葬式では、故人は昔こういう趣味に凝っていました、こういうスポーツでこれだけのことをしましたといったよう
気になる記事をスクラップできます。保存した記事は、マイページでスマホ、タブレットからでもご確認頂けます。※会員限定 無料会員登録 詳細 | ログイン 宋文洲です。いつもご愛読いただき心から感謝をしております。 年始の挨拶の時も申し上げた通り、このコラムの趣旨は日本の方とは異なる視点を提供することで、様々な立場から議論し、それぞれの意見の偏りを修正して、問題の本質に迫ろうとするものです。ですから、僕の書いた記事に対して、建設的な反論や批判がなされるのは、最初から期待していることです。 前回の「日本は本当に『環境先進国』なのでしょうか」でもたくさんの意見をいただき感謝しています。しかし、この記事に限ったことではありませんが、寄せられたコメントの中には「中国人による日本批判だ」「反日だ」「中国に帰ったら」といった言葉が交じっています。 読者の9割近くが「とても参考になった」「まあ参考になった」と
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