大和川の付け替えは、洪水の被害に悩まされた農民の度重なる嘆願と、川の改修に尽くしたものの洪水がどうにも治まらない結果、ついに江戸幕府が行った大規模な公共工事です。 工事は元禄17年(1704年)2月から、その年の宝永元年(1704年途中改元あり)の10月までのおよそ8ヶ月間で行われました。工事区間を数箇所に分けて、いくつかの大名に工事を請け負い競わせたり、川を掘るのではなく堤を築いて川を作って行く工法によって工事は早く終わることができました。 寛永泉州大絵図抄録(写) 寛永16年(1639) 大和川付け替え前の堺の絵図で、大和川はまだなく、三方を濠で囲まれた堺の町が描かれています。 河内堺新川絵図 文化3年(1806) 大和川付け替えにあたり、流域の村々への告知を目的に配布された絵図です。絵図には付け替え後の川が「新川」と書かれています。また「御鍬初」とある2月27日は工事が始まった日です