「玉音放送」を聞きながらこれで朝鮮は日帝の軛(=くびき)から解放されたと思ったときの、あの天にも昇るような歓喜の日から50年の歳月が流れた。ふと溜め息がもれてくる。あの日の歓喜はつかの間のものでしかなかったのだ。数日を経ずして米ソ両軍による分割占領の報が伝わり、以来紛争と殺戮、抑圧と抵抗で点綴(=てんてつ)された分断50年の悲劇が開始される。 ◆話のとっかかりとして、まず戦後日本に対するアメリカの「逆コース政策」がどのように形成されたか、その過程をかいつまんで検討することにしよう。 東条英機ら7人のA級戦犯が処刑されたのは1948年12月23日であるが、その翌日の24日、同じくA級戦犯であったはずの岸信介は無罪放免で釈放された。戦前からの超国家主義者であった岸は、やがて日本の総理の座に就くことになる。 ちょうどこの頃、つまり1948年12月12日、パリで開かれた第3回国連総会では、大韓民国