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交流と歴史に関するuduki_45のブックマーク (6)

  • 池波正太郎さん宛の手紙 多数見つかる NHKニュース

    ことし生誕90年を迎えた戦後を代表する作家、池波正太郎さんの自宅から司馬遼太郎さんら同じ時代の作家などから送られた手紙が100通以上見つかり、作家の幅広い交流が伺える貴重な資料として注目されています。 池波正太郎さんは時代小説の「鬼平犯科帳」や「剣客商売」など、戦後を代表する作家として人気を集め、平成2年に67歳で亡くなりました。 手紙は、去年10月、東京都内の自宅の書斎から見つかったもので、池波さんが師と仰いだ長谷川伸さんら同じ時代の作家や、俳優などから受け取った113通が残されていました。 このうち、昭和38年に親友の司馬遼太郎さんからもらった手紙には、池波さんの当時の新作について「御作やっぱりほうぼうで好評ですぜ」と独特の言い回しの褒めことばがあり、「人たらし」と言われた司馬さんの人柄や2人の親密さが伺えます。 また、池波さんが昭和35年に直木賞を受賞した直後に選考委員だった川口松太

  • 司馬さんから池波さんへ 「親愛」示す書簡4通発見 - 日本経済新聞

    「鬼平犯科帳」などで知られる人気作家、池波正太郎さん(1923~90年)の東京都内の自宅から、池波さん宛ての手紙やはがき計113通が見つかった。このうち、4通は国民的作家の司馬遼太郎さん(23~96年)からで、池波さんへの親愛の情がうかがえる。手紙の一部は「作家の手紙」を特集した22日発売の「オール読物」5月号(文芸春秋)に掲載される。手紙は作家や俳優ら76人分。池波さんの自宅書斎の戸棚にまと

    司馬さんから池波さんへ 「親愛」示す書簡4通発見 - 日本経済新聞
  • 朝日新聞デジタル:「交流深めたいという趣旨」河村氏、南京事件発言めぐり - 政治

    印刷 関連トピックス河村たかし  名古屋市の河村たかし市長は26日、同市天白区で開かれた減税日所属議員の集会で、南京虐殺を否定した自らの発言について「(27日午後の)定例記者会見の場で話したい」と述べた。  河村市長は集会で、南京市側に南京事件についての討論会の開催を申し入れたことについて「名古屋から南京へ進出する企業は、上海と比べるとはるかに少ない。南京との交流を深めていきたいという趣旨で発言した」と説明した。  河村市長はこれまで、事件後の45年に現地に駐屯した父親が中国人に優しくもてなされたことなどを挙げて「南京事件はなかったのではないか」などと発言してきた。この日の集会後、記者団に「自分の主張にはほかにも理論的根拠があってのことだ」と話した。 関連記事「南京事件なかった」と河村氏発言 中国からの訪問団に(2/20)首相の訪中延期、年内訪問で再調整 中国側が申し出(12/7)

  • 尾崎豊ハウス老朽化で建て直しファン別れ - 芸能ニュース : nikkansports.com

    80年代に「ティーンエージャーのカリスマ」として絶大な人気を誇り、92年に急逝した歌手尾崎豊さん(享年26)をしのぶ場所としてファンに愛されてきた東京・足立区の民家、通称「尾崎ハウス」が今日3日、取り壊される。尾崎さんは亡くなる直前、この家の庭で倒れているのが発見された。以来19年間、全国から訪れるファンの交流の場として、住人の小峰忠雄さん(72)が家の一室を開放していたが、このほど老朽化などから建て直すことに。見納めとなった2日は、次々とファンが訪れ「聖地」に別れを告げた。 静かな住宅街の一角にある「尾崎ハウス」では、翌日の解体を控え、小峰さんらが家具などの搬出作業に追われていた。尾崎さんのポスターやパネルで埋め尽くされていた6畳間にはもう何も置かれていない。小峰さんにとって思い出が詰まった家だが、築65年以上の老朽化もあり、息子夫婦との2世帯住宅に建て替えるという。 92年、庭の片隅で

    尾崎豊ハウス老朽化で建て直しファン別れ - 芸能ニュース : nikkansports.com
    uduki_45
    uduki_45 2011/10/03
    よく20年近くも開放したもんだ
  • 「十津川村救え」北海道・新十津川町…移住の縁 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    台風12号で奈良県十津川村が大きな被害を受けたことを受け、約120年前に同村からの移住者たちが開拓した北海道新十津川町が支援に乗り出す。 同町の植田満町長は5日、近く具体的な支援策をとりまとめる考えを示した。 十津川村では1889年(明治22年)に大水害があり、168人が死亡するなど甚大な被害が出た。生活の基盤を失った約2500人が新天地を求めて北海道移住し、現在の新十津川町を開拓した経緯がある。町では十津川村を「母村」と呼び、両町村間の交流は現在も盛んに行われている。 植田町長は読売新聞の取材に対し「母村が危機の時に支援をするのは当然のこと。現地の状況を把握し次第、具体的な支援を行う」と語った。

  • 【被災地を駆けた無名戦士たち】北海道白老町 1000食分の焼き鮭も提供、仙台市とは江戸時代以来150年の交流+(1/3ページ) - MSN産経ニュース

    苫小牧の西、太平洋に面した北海道白老町(しらおいちょう)は、黒毛和牛の白老牛や虎杖浜(こじょうはま)タラコなどで知られる農業と漁業の町だ。町内にはアイヌの集落、ポロトコタンがあり、豊かな文化歴史に彩られた町でもある。ここの町職員6人と民間社員2人が東日大震災で被災した仙台市に派遣されたのは、地震発生から4日後の3月15日朝のことだった。 「仮設トイレの設置と給水車での支援活動を行いました。函館から青森までフェリーを使い、白老から18時間かかりましたね」と第1次派遣隊の責任者、消防管理課長の越前寿さん(51)は振り返る。 白老町がいち早く仙台市に職員を派遣したのは姉妹都市という関係からだ。その結びつきは江戸末期までさかのぼる。東北の各藩は幕府から北方警備を命じられ、白老から襟裳岬(えりもみさき)、択捉島(えとろふとう)までをあてがわれた仙台藩は、白老に元陣屋を置いた。先住民のアイヌの人々

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