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国家と暴力に関するyomimonoyaのブックマーク (4)

  • 排外デモが意味するもの - Arisanのノート

    http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20101207/1291739195 http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20101209/1291872075 この出来事については、すでに幾人かの人によって、言われるべきことが言われていると思う。 しかし、この映像を見ても、また文章を読んでも、なかには 『在特会によるデモは、一応法的に認められた「表現」で、それを「妨害」しようとした青年を警察が捕まえ、デモをしていた側を捕まえないのは、警察の建前としてはやむを得ないところだ』 という風に思う人が居るかもしれない(実は、私も当初はそう思っていた)ので、念のために書いておきたい。 この排外主義のデモというのは、今の日においては、市民の自由な表現行動というようなものではなく、国家暴力の一形態だと思う(こうした「デモ」が、それ自体で暴力である

    排外デモが意味するもの - Arisanのノート
    yomimonoya
    yomimonoya 2010/12/10
    「言わば「非正規化された国家暴力」、「国家暴力のアウトソーシング」とも呼べるものが、この種の「デモ」だ」
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    週報 2024/04/28 川はただ流れている 4/20(土) 初期値依存性 さいきん土曜日は寝てばかり。平日で何か消耗しているらしい。やったことと言えば庭いじりと読書くらい。 ベランダの大改造をした。 サンドイッチ 一年前に引っ越してからこんな配置だったのだけど、さいきん鉢を増やしたら洗濯担当大臣の氏…

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  • とあるアルファブロガーのSophisterei(詭弁)――あるいは正統的な暴力も暴力であることについて - 過ぎ去ろうとしない過去

    はじめに結論から書いておこう。「国家が暴力を独占する」の意味は、国家が自らの暴力の行使に対してのみ、正統性を付与するということである。国家というのは、征服によるものであれ、共和主義的な統合によるものであれ、その集団がある領域内を実効支配した時点で、定義上、その領域内には少なくとも国家に匹敵しうるような暴力を行使可能な集団は存在していないはずである。だが、国家はなお支配のために「暴力を独占」する。それは、自前の暴力組織にのみ正統性を与えることによってであって、そうやって正統性を与えられた暴力組織を「軍隊」や「警察」と呼ぶ。ウェーバーによればその正統性の源泉は、近代国家においては「合法性」である。その正統性(=合法性)に基づいてはじめて、政府は国家内の自律的な暴力集団を規制したり弾圧することができるのである。 軍隊や警察は、人を殺しうる力を持っている。たとえ侵略軍から「国家を防衛」するためであ

    とあるアルファブロガーのSophisterei(詭弁)――あるいは正統的な暴力も暴力であることについて - 過ぎ去ろうとしない過去
    yomimonoya
    yomimonoya 2010/11/20
    「それが正統づけられた暴力であるがゆえに、その危険性を忘れたとき、シビリアンコントロールは単に手続き的な追認に堕してしまう。市民による不断の監視が必要なのである」しかして、「市民」はこの国のどこに?
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    yomimonoya
    yomimonoya 2010/11/20
    「言い換えれば本質から逃れられる訳ではないのだから」にもかかわらずあらゆる領域で本質だけは絶対に見まいとし続けてきたのがこの国の社会の特質であったり。
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