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プロジェクト管理と航空に関するdomblyのブックマーク (3)

  • bp special ECOマネジメント/フロントランナー - 「棟梁仕事」こそ、成功の道 航空機産業の生き残り賭けた挑戦

    「40年ですか……」 「そうです、40年後です。航空機事業が主力産業に成長するのは。しかし奥田さん、考えてみてください。40年前、すなわち昭和40年代前半に、日の自動車産業が、米国や欧州に工場進出するなど、誰が予想したでしょうか。いまや、中国やインド、ロシアにも出ていて、世界中に自動車を売っているじゃないですか」 「うーん……」 「これから生まれてくる子どもたちが、40歳の働き盛りになったときに、一流の技術立国として日は輝いていなければならない。そのための基盤をつくるのは、われわれの責務なのです」 西岡喬は、トヨタ自動車の奥田碩相談役(元社長・会長)にこう話し、三菱航空機への出資を要請した。西岡が日経済団体連合会(経団連)副会長に就任した2003年5月、会長を務めていたのは奥田。以来、2006年5月に奥田が会長を退くまで、二人は経団連会長と副会長の関係だった。 度重なる不祥

  • bp special ECOマネジメント/フロントランナー

    横浜で10月に開かれた「2008年国際航空宇宙展」を動画で紹介。「YS-11」以来の国産旅客機開発の話題もあり、大きな賑わいを見せた(画像をクリックすると国際航空宇宙展の動画レポートをご覧いただけます)   「時は到来した。ここを逸すれば、チャンスは二度とない。(三菱)重工にも、そして日にとっても……」 経営者は認識し、速やかに決断した。前夜、都内にある自宅の天体望遠鏡から彗星を確認していた。暗く澄み切った空の向こう側にある星空の煌めきと同じくらいの重さが、彼の決断には、込められていた。 2005年のカレンダーも残りわずかなある夜。三菱重工業会長(当時)の西岡喬は、この日までひたすら待ち続けていた。10年などという歳月ではない。四半世紀、いや「YS-11」から数えるなら、ほぼ半世紀に達する。 東京大学航空学科を卒業し1959年に入社して以来、経営再建に取り組んだ社長時代(1999年〜20

  • bp special ECOマネジメント/フロントランナー

    「な、なんで私なのですか!」 宮川淳一は、あまりの驚きに思わず声を発していた。 2007年2月のある日。三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所。副所長(当時)は、防衛省向けの航空機技術部長だった宮川を呼ぶと、「お前、4月からMジェットになったぞ」と、唐突に内示したのだ。「Mジェット」とは、開発を進めている小型ジェット旅客機の呼称。現在は正式に、「MRJ(三菱リージョナルジェット)」となった。 三菱航空機の宮川淳一常務執行役員プロジェクトマネージャー。東京大学工学部航空学科を卒業して1978年に入社。防衛省向けの戦闘機開発畑が長かった。2007年4月に旅客機プロジェクトに異動。2008年4月、三菱航空機の設立に伴い現職に就く。東京生まれの東京育ち。子供の頃は、第二次世界大戦中の戦闘機のプラモデルをよくつくった。「ゼロ戦」や「月光」という三菱が手掛けた海軍機ばかりでなく、「飛燕(ひえん=三式戦

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