<1.南部もぐりの始まり> 【English(PDF)】 明治31年6月25日(1898年)の夜、函館から横浜に向っていた、『名護屋丸(なごやまる)』(2835トン)という船が濃霧のために、洋野町種市の平内沖で座礁(ざしょう)しました。浸水する船はそのままに避難するしかありませんでしたが、幸い乗客(34名)、乗組員(76名)は全員無事に上陸することができました。 翌(よく)明治32年、『名護屋丸』の船体を解体、引き揚げするために、『三村小太郎(みむらこたろう)』ら4名の房州(ぼうしゅう)潜水夫(房州は現在の千葉)が洋野町にやって来ました。この工事の『雑役夫(ざつえきふ)』(潜水装備を身に付ける手伝いなど、船上でダイバーの補助をする者)として雇われた地元の青年『磯崎定吉(いそざきさだきち)』は、もぐり(潜水)の達人、三村小太郎にその才能を見込まれ、ヘルメット式の潜水技術を伝えられ、『南部も
伝統のヘルメット式潜水技術を持つ「南部もぐり」を歌った「南部ダイバー」が、NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」に登場したのをきっかけに、地元洋野町で歌い継ごうとする機運が高まっている。後継者を輩出する種市高(小笠原健一郎校長、生徒264人)では、生徒たちが伝統の歌の「復活」を目指して練習を開始。同町生まれの故安藤睦夫さんが作詞作曲した誇り高き愛唱歌を、町ゆかりの歌として定着させようという動きは地域にも広がりそうだ。 「南部ダイバー」は1957(昭和32)年、「北上夜曲」の作曲者としても知られる安藤さんが潜水士から依頼を受けて制作。後にレコード化もされた。 海中を仕事場とする潜水士の誇りが歌詞に込められ、種市高で潜水土木技術を学ぶ生徒やOBらに歌われてきた。しかし、80年代後半以降、同校で歌われる機会は減り、現在、歌詞を暗記している生徒はほとんどいない状態だった。 海洋開発科の3年生が6月2
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く