【読売新聞】 太平洋戦争の火ぶたを切った旧日本軍の真珠湾攻撃から80年が過ぎた。その攻撃の一翼を担った山口多聞中将(開戦時は少将)の三男宗敏さん(89)(相模原市南区)は「父は米国との戦争には反対していた。複雑な心境だったのではない
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社長の仙田でございます。 中国新聞朝刊に、「野球サッカー伝来初期 江田島でプレー」という記事が掲載されました。サッカー王国広島を裏付ける貴重な史料の発見です。この記事に私も関わりました。この発見の意義を、かいつまんでお伝えします。 東京九段にある昭和館には、敗戦直後の米豪の撮影したフィルムが膨大に保管してあります。私は、そこにサッカーの映像を探しに行きました。 「昭和20年~24年の呉、川奈、熱海」というタイトル編に、サッカーの映像がありました。そこで、これを取り寄せ、サンフレッチェ広島のホームページ(広島サッカーの歴史ページ)に掲載しました。 場所を特定するために、広島・呉の近代史の権威 千田(ちだ)武志 広島国際大学客員教授に電話で相談すると、もっと大きな発見があって、明治23年、江田島の海軍兵学校でサッカーをしたという記録を見つけたと言われるのです。 そこで、中国新聞社の方と江田島市
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