“天下分け目”と言われる関ヶ原の戦いはどんな争いだったかと問われれば、「徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍に勝った」と多くの人が答えることだろう。 ところがこれに異論を唱える研究者がいる。「宇喜多家史談会」理事の大西泰正氏だ。 「実は、当時の感覚としては『徳川家康×石田三成』ではなく、『徳川家康×宇喜多秀家』であったのではないかと考えられます」 宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで副大将をつとめ(総大将の毛利輝元は大坂にいて参戦せず)、西軍最大の部隊を率いて最前線で壊滅するまで戦った。豊臣秀吉の猶子(準養子)で、五大老の一人でもある。しかし、それにしてはいまいち存在感が薄い。 「秀家の影が薄くなったのは後世になってからのこと。当時の貴族の日記などを見てみると、例えば『言経卿記』には『内府(徳川家康)が勝ち、備前中納言(宇喜多秀家)が敗北した』と書かれています。石田三成のことなど一言も書かれていな
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