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2012年7月29日のブックマーク (5件)

  • 誰が弱者か?: 極東ブログ

    2ちゃんねるのまとめサイトだろうか、「どっちが弱者ですか?」(参照)というネタが上がっていた。ネタだというのは一目見ればわかるが、この絵はちょっと奇妙な後味を残す。誰が弱者か?という難問の、どこかしら質を突いているからだろう。 5人の人がいる。左から。 (a)貯金4000万円の働かなくても年金生活の老人。 (b)年収300万円の疲れ切ったブラック会社員。 (c)年収250万円の派遣社員。 (d)年収200万円のフリーター。 (e)旦那が年収1000万円の専業鬼女。 もちろん、ネタ元の「あなたの優しさで席をゆずりましょう」というときは、妊婦(e)や老人(a)に席を譲ろうという話だったのだが、これを「弱者」に問題をすり替えたとき、譲られるべき老人(a)も妊婦(e)も社会的な「強者」ではないのかというアイロニーである。 もちろん、とまた言うが、この局面では座っている権利を持っている人が身体的な

  • 実名で悪質なコメントは防げない

    Surprisingly Good Evidence That Real Name Policies Fail To Improve Comments | TechCrunch YouTubeが悪質なコメントを防ぐために実名を強く推奨しだしたそうだが、実名を強制したところで、悪質なコメントや犯罪の防止には全く役に立たない。これはすでに現実に行われた例がある。 韓国では国民全員にユニークなIDを振り、PV数が10万を超えるサイトには、必ずそのIDを使わせる、すなわち実名にすることを義務付けた。 しかし、この法律が行われた韓国で、悪質なコメントは減ったかというと、実は増えたのだ。 Empirical Analysis of Online Anonymity and User Behaviors: The Impact of Real Name Policy 実名を強制したことで、わざわざIDの

  • 人は誕生日に死ぬ確率が高い: 極東ブログ

    人が23人ほど集まると同じ誕生日の人が二人いる確率は50パーセント。半々というところ。当だと思いますか? これって科学的? あるいは数学的? いや、知っている人は知っているよくある話だが、知らないと、ちょっと奇妙に思いがち。そう思う理由は、自分の誕生日と同じ誕生日の人というふうに暗黙に想定してしまうからだ。ところで、人は誕生日に死ぬ確率が高い、というのはどうだろうか。当だと思いますか? これって科学的? あるいは数学的? スイスの統計学者が、1969年から2008年までの250万人を対象に統計処理したら、そういう結果になった。論文のタイトルは「死は誕生日を好む(Death has a preference for birthdays)」(参照)。いや、ほんと。これは冗談ではない。"This is not a joke."と、この話題を扱ったBBCも書いている(参照)。偽科学でもない。じ

    junkcollector
    junkcollector 2012/07/29
    『死亡日時が不明な人は死亡日=誕生日として処理される決まりになっている。』に一票。
  • 高木浩光@自宅の日記 - 個人情報の地方自治が信用ならないワケ

    たしかに私は1年ほど前、三田市役所に電話したことがある。三田市だけでなく他の自治体にも同じ内容で問い合わせをした。それは、以下の報道を受けて、実態がどうなっているのか、自宅研究のため、各自治体に取材を試みたものであった。*1 漏洩元のうち岐阜県飛騨市は、情報が流出した一人一人に事情を説明して謝罪し、記者会見で事実を公表した。 しかし、他の13団体は「不特定多数の目に触れておらず漏洩ではない」(海陽町)、「他自治体からさらに外部へは流出していない」(渋谷区)、「すぐに削除された」(愛知県尾張旭市)などとして具体的な措置はとらなかった。 すべての自治体は独自に個人情報保護条例を持ち、「正当な理由」のない個人情報の提供を禁じる。条例は(略)人以外から個人情報を得ることを禁じている。総務省は各自治体の判断を尊重するとした上で、「省庁で同じことがあれば漏洩として対処する問題だ」とした。 個人情報の

    junkcollector
    junkcollector 2012/07/29
    終身雇用だから身内の仲間意識ばかりが無駄に強くなって、個人情報保護を実践する気なんてゼロなのよね。これだから組織には新陳代謝が必要なんだよ。
  • 米国で一番優れた先生: 極東ブログ

    教育問題にはあまり関心がない。正確に言うと「日教育問題」に関心がない。そう思う理由はシンプル極まりない。教育は元来国家のセクターではないからである。 教育が国家のセクターになったのは、歴史的に見れば、義務教育は皆兵のため、高度教育は官吏養成のためだった。こうした近代国家の、必然とも言える動向をむげに否定はしない。現代では「皆兵」は軍事的な意味ではなく経済的な意味に転換し、生産力向上の「皆兵化」の意味もあるだろう。いずれにしても、ようするに国家のためであるという点は変わりない。 だが教育というのは、それ以前には、人が自由になるための技芸であり、なにから自由化といえば、国家的な権力から精神を自由にするためのものであった。その部分こそは変わらず教育質だろうと思う。まあ、そういうこと。そういうことであれば、あまり「公」に教育のあり方を議論するのは矛盾している。 とはいえ、昨日東京新聞社説「

    junkcollector
    junkcollector 2012/07/29
    社会の実相を見てから教師になりたいと思う人は現代にだっていくらでもいる。問題はそういう人が教育現場に入ってくるのを恐れ、妨害する連中だ。教育界だけじゃない。この国はどの業界だってそうだ。