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*readingとmediaに関するklovのブックマーク (5)

  • イニス『メディアの文明史』 - ミズラモグラの巣で

    手許にブツがないので借り出してきた。ちょっといかがわしい感じがしないでもないのだが、なるほどと思わせる記述も多く面白い。カルスタ流行りなら、このよく知られているはずの、復刊されてもよいと思うのだが、新曜社にはそういう予定はないんですかね。それから、ほとんどずっと「---した」で終わり続ける翻訳の文体は読んでいて、疲れるというか話がアタマのなかに入りにくくなります。それはともかく、 中世ヨーロッパ社会のなかで、紙と筆記の普及が背中を押した趨勢 ヨーロッパでは商業、都市、大学の交流が、修道院と在俗聖職者とのあいだの葛藤および教会と国家とのあいだの葛藤、とくに教育の監督権をめぐって葛藤をもたらした。紙の導入と筆記の普及は自国語の発達とラテン語の衰退を促進した(27頁)。 自国語の重要性が増大し法律家が台頭してきたことは、教会組織にかわって政治組織の地位を強化した(72頁)。 と、それを逆手にと

    イニス『メディアの文明史』 - ミズラモグラの巣で
  • カラオケの「正史」とメディア分析の作法:荻上式!電網テレビ批評 | みんなのテレビ:So-net blog

    昨年12月に発売された、烏賀陽弘道『カラオケ秘史―創意工夫の世界革命』(新潮社、2008)が非常に面白い。カラオケの歴史について丹念に取材された一冊で、カラオケの起源からカラオケボックスの誕生、通信カラオケの普及、「郊外型・ロードサイド型」から「ビル・イン型」への発展など、その流れが見事に整理されている。 特に印象深かった点を2つ。1つは、「音楽鑑賞」よりも「カラオケ」を娯楽としてあげる人の割合が多く、レコード屋よりもカラオケボックスの店舗数の方が多く、CDなどの音源よりもカラオケの方が消費されているという実態から、日人にとって「音楽」とは「聴くもの」「受動的に鑑賞するもの」ではなく「歌うもの」「能動的に参加するもの」だという指摘している点だ。例えば現在では、「コミュニケーション消費」の欲望をウェブサービスやテレビ番組の歴史などから読み取る論も少なくないが、カラオケというメディアを観察す

  • 筒井康隆がウケた背景みたいなの: muse-A-muse 2nd

    これについてはちょっと前のエントリでも少し触れたんだけど muse-A-muse 2nd: ルサンチマンって新中流層辺りから出てるのかねぇ 中流層の教養ダダすべり問題っていうか動物化うんぬん問題とも絡むんだけど、読み進めてたら筒井康隆について言及してる箇所が出てきてそれがたんぶらーでたまたまみたエントリとリンクしたものでメモ的に。 むーたん - この小説は一日一話ずつ掲載という新聞連載の特性を利用し、その日の掲載分を読んだ読者からの、投書やASA... (※以下、「朝のガスパール」についてのwikipediaの引用から孫引用) この小説は一日一話ずつ掲載という新聞連載の特性を利用し、その日の掲載分を読んだ読者からの、投書や ASAHIネットのBBSへの投稿を作品世界に反映させ、虚構と現実の壁を破るという実験的手法がとられた。具体的には、投書や投稿により物語の展開に対して読者が作者に要望を出

  • テレビだョ!全員集合―自作自演の1970年代 - 情報考学 Passion For The Future

    テレビだョ!全員集合―自作自演の1970年代 「8時だヨ!全員集合」、「欽ちゃんのどこまでやるの!」、「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「太陽にほえろ!」「熱中時代」「スター誕生」「夜のヒットスタジオ」。1970年生まれの私は、まさに70年代テレビを見ながら物ごころがついた。子供だったからテレビを批判的にみることはしなかった。家族と一緒に見るテレビ視聴は、ただただ楽しい体験だった。 まず面白さの原点をテレビに学んでいた気がする。そして画面に映る社会や未来はいずれ自分がその中に入って行く世界の予告編に思えた。今思えばテレビは子供の私に最大の影響を与えた学校だった。だから、70年代テレビを客観的に解体しようとするこのは、自分の思考や感性を批判的に見直す機会にもなった。 「書は、何よりもこの「情報」と「演出」の亀裂を埋めるようなテレビ的言説の構築を目指すものである。そのために書では、「自作

  • 『マクルーハンの光景 メディア論がみえる』宮澤淳一(みすず書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 これでもう一度、一からのマクルーハン 息せき切ったダミ声の大阪弁で、政財界への講演が一回で何百万という噂もあった時局コメンテータ竹村健一氏の名も姿も知らない学生たちの前で、マクルーハンのことを喋るのも妙なものだ。マクルーハンは、竹村氏のアンテナがピリピリ敏感だった絶頂期、その『マクルーハンの世界-現代文明の質とその未来像』(講談社、1967)で一挙に有名になり、同じ年の「美術手帖」12月号「マクルーハン理論と現代芸術」特集で、大学闘争がいよいよ爆発寸前という時代の、学とアートとがごっちゃになる創造的混沌の季節の代表的ヒーローとなった。1960年代末にかけての世上あげての「クレイジー・ホット・サマー」の何でもミックス、何でもありの、日と世界の知的状況の中で、マクルーハン・カルトとも「マクルーハン詣で」とも称されたメディア論の元祖を位置付けるチャートの巧さに、宮澤淳一

    『マクルーハンの光景 メディア論がみえる』宮澤淳一(みすず書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
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