すべての経済学と経営学はPerfumeから学べる。 これは、先日、元日本銀行審議委員の中原伸之氏からも、私のパネルディスカッションでの議論に賛同を頂いたから、個人的な主張ではない。彼にPerfume理論への賛辞を頂いたことで、今後、さらにこの理論は発展していく。 昨日のライブでのコメントに関連して、一点、その例を示そう。 *** コンサルタントや評論家は、企業の経営者が永遠のチャレンジをすることを嫌う。メディアは、それを盛り上げるが、冷静に考えれば、成功した企業の多くは、たまたま一つのビジネスモデルで成功しただけで、あるいは、一つの勝ちパターンを生み出しただけで、成長の持続力がある程度あるとしても、必ず、賞味期限がある。ビジネスモデルの有効性は、環境が変化すれば失われるし、しかも、新しいものにチャレンジして成功する理由はない。 これは、多くの起業家、経営者が陥る典型的な自信過剰の誤謬である
素晴らしかった。 パフォーマンスとして非常に良く出来ており、このままどこに行っても通用する感じだ。実際、ベルギーを皮切りとするワールドツアーが、ライブの最後に発表された。ライブ中、Perfumeのパロディのような場面も見られたが、お互いはいい関係なのだろう。 しかし、きゃりーの偉大なところは、一人で舞台を回すところだ。Perfumeは仲の良い三人がおしゃべりしているだけで形になる。コアなファンにはたまらないし、初めてライブに来てもそのほほえましさにすぐなじむことが出来る。ただ、若い女の子を自由に遊ばせれば、どんなときでもそれなりの形になるのだ。 それを秋元康は、1980年代末に発見し、つんくはそれを自分でやってみたいということだけで成功した。20年後、秋元は、偶然のきらめきをシステムとして再現し、ビジネスとしてはより大きな成功を収めた。 Perfumeは、これとは若干異なるが、キャンディー
Perfumeは昨年11月の東京ドームで一つの頂点を迎えた。ライブのエンディングは、ある種の終わりを告げるもので、あのまま引退してもおかしくなかった。キャンディーズとPerfumeの比較で考えるならば、勢いのあるときに引退して伝説を作り、その伝説に基づいて次の個人ビジネスをはじめたのがキャンディーズだった。だから、永遠の素人で、特に美しくなくとも息の長い活動が出来た。 しかし、PerfumeはProfessionalの道を選んだ。 これは今までの10年間以上の困難に直面することになり、しかも勝ち目は薄い。この合理的でないところがPerfumeらしいところで、これからの彼女達あるいはPerfume Communityの推移は歴史的検証の対象となるだろう。 道は三つに分かれる。 一つ目は、一般的な資本主義路線。固定客が付いたから、少しずつだけいろんなことをして、この状態を出来るだけ長く維持し、
ファンとメディアが駄目にする構造は変わらない。 この歓迎、感動ムードは何だ。 選手達は良く頑張った。それは素晴らしい。記者会見は笑顔で盛り上がっていたが、本田も遠藤も言っていたように、うれしいはずがない。悔しくて堪らないはずだ。 私のパートナーは、パラグアイ戦の後、悔しくて朝まで眠れなかった。 日本は実力をかなり発揮しただろう。素晴らしかったし、感動もした。 しかし、勝てた可能性のあった勝負に負けたのだ。 なぜ森本でなく玉田なんだ、ということもないわけではないが、そういう問題を超えた、勝利の可能性を逃したのだ。 このチームで戦うことはない。ここで勝たなければ次はなかったのだ。 それに負けた。 その選手達の悔しさを、勝手に感動に変えて、自分勝手に盛り上がっているファンとメディアは何なんだ。 サッカーに関して、やはり世界一レベルの低い日本と言わざるを得ない。
AKB48がヘッジファンドならPerfumeはNPO、AKBが金融市場モデルならPerfumeはコミュニティモデルいやコミュニティそのものだ。 AKB48では総選挙が行われ、その順位がすべてを決める。パフォーマーも出資者も、実力主義、出資者は、資金の拠出額に応じた力を持つ。パフォーマーは激しい競争で勝ち負けがすべてであり、序列は絶対だ。 一方、Perfumeにおいては、すべては平等、序列はない。ファンクラブに入っても、チケットは一人一枚まで、妻の分も買えず、妻もファンクラブに入らなければならず、プレミアチケットは誰に売ることも出来ない。普通選挙制度みたいなもので、貧富によらずファンは愛がある限り平等だ。そして、3人の序列などありえず、ファンは、誰のファンではなく、perfumeのファンなのだ。 どちらが時代にあっているか、surviveするのか、金融資本主義の未来と同様に注目だ。
リフレ派、そして、多くのメディアが誤っているのは、貨幣供給量が足りないからだ、と思っていることである。 物価は、モノの総量と貨幣の総量の比率であるから、後者が増えれば、モノの値段は上がり、減少すれば、モノの値段は下がる、というロジックだ。これは原始的な貨幣数量説だ。 これがなぜ誤りか、というと、ミクロ的に、貨幣量が増えたときに、モノの値段が下がるメカニズムを議論していないことにあり、現実的に、そのメカニズムは存在しないからである。 この議論に対して、リフレ派が主張するのはヘリコプターマネーである。 空から、カネをばら撒けば、世の中にカネがあふれる。モノは増えないから、物価は上がる、ということである。 ウソだ。 まず、モノが増えない、というのは間違っている。企業は売り上げ現象に苦しんでいる。おカネがあふれ、人々が買いに殺到すれば、企業はもちろん増産を始める。 モノは増えるのだ。 そして、もう
デフレの定義の混乱も二重に渡っている。 第一は、前述したように、実体経済の景気が悪い、というのはデフレではなく、不況だ。deflationではなく、depressionだ。 第二の混乱は、デフレとは、資産デフレと消費財デフレがあり、一般的には、消費者市場における物品、サービスの価格が下落することを指すのだが、デフレに対処する政策手段を議論するときに、この2つのデフレを区別しないことだ。 これは、現実的に罪深い混乱だ。 デフレは金融的現象であるという認識は、資産デフレについても、消費財デフレについても、成り立ち得る議論ではあるが、当てはまらない場合も多い。なぜなら、デフレの原因はほかにもあるからである。 デフレと言うから分かりにくいが、資産価格の継続的な下落といえば、ほかにも理由があることは明らかだろう。 一つは、需給バランス。供給だけでないから、需要サイドを考えないといけない。 もう一つは
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