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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki (16)

  • ゆっくり動画まとめ - らいたーずのーと

    ■目次ゆっくりの起源ゆっくり動画の有名作品ゆっくり動画まとめ ■ゆっくりの起源ゆっくりしていってね!!! - Wikipediaゆっくりまとめwikiゆっくり保管庫ニコニコ大百科まとめwikiの調査によると、AA自体の起源は2003年頃にまで遡れる(上記リンク参照)。「ゆっくりしていってね!!」の言葉自体は、2008年1月説が最古。 ■ゆっくり動画の有名作品最古のゆっくり動画ゆっくりしていってね!!!【手書きPAD】Ver1(2/10)※「ゆっくりしていってね!」がタイトルに付された動画は2月8日付で存在するが作業用BGM集である。 ゆっくり動画ブームの火付け役ゆっくりFlash 1-13まとめ(3/21) スクールデイズ改変ゆっくりデイズ(4/3) ゆっくりに物語・人格がついた最初の有名動画ゆっくり漫画(4/12)二次創作ではないゆっくり動画、きれいなゆっくり、「ゆっ!」、ゆっくり虐待も

    massunnk
    massunnk 2008/11/21
    勉強になる
  • 『思想地図』発刊記念シンポジウム「公共性とエリート主義」レポート - らいたーずのーと

    昨夜(6月16日)、新宿紀伊国屋店7階にて開催された、東浩紀・北田暁大・姜尚中・宮台真司・鈴木謙介五名によるシンポジウム。テーマは「公共性とエリート主義」。まず最初に北田暁大による基調報告が行われ、それに対する鈴木・宮台・姜のコメントで第一部を終了。来予定していた休憩時間をカットして、そのまま第二部の討論へと進む。時間は19時5分開始、21時45分終了。 以下ではシンポジウムを聞きながら取ったメモを用いて簡単なレポートを書く。 もちろん、書ききれなかったことや理解が不十分な部分も多々あり、不完全なレポートとなっていることは明白で、むしろその穴をコメントなどで指摘していただいて修正していくことができたら、と思っている。 ■第一部前半――北田暁大の基調報告 前回のシンポジウムのテーマ「国家・暴力・ナショナリズム」と、今回のテーマ「公共性とエリート主義」が、どのようにつながっていくのか、とい

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    massunnk 2008/06/17
    東×宮台
  • 東浩紀「情報自由論」(『情報環境論集―東浩紀コレクションS』所収) - らいたーずのーと

    情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX) (講談社BOX)作者: 東浩紀出版社/メーカー: 講談社発売日: 2007/08/02メディア: 単行 ■第三の自由=匿名性の自由とは アイザィア・バーリンの言う「消極的自由」「積極的自由」概念の区別*1と、それに対してそれぞれが共に実現していることが自由の条件であるという大澤真幸の議論*2とを踏まえて、東浩紀は「第三の自由=匿名性の自由」を提唱する*3。選択肢が用意されている状況としての消極的自由と、選択をコントロールしようとする外部からの独立し自分自身で何かを選択できる状況としての積極的自由、そして、そもそも何かを選択するということで多大な責任を負うことから逃れ、匿名的な大衆の中で流される権利を主張する匿名性の自由。 ■匿名性の自由とは当にありうるのか しかし、私自身は、そのような自由が存在するとは思えない。人間が常に選択を迫ら

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    massunnk 2007/10/10
    いい感じになってるぜ>「こうして自分も段々と東浩紀信者になっていくのだろうな」
  • 時限爆弾の解体――古川日出男『ハル、ハル、ハル』 - らいたーずのーと

    ハル、ハル、ハル作者: 古川日出男出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2007/07メディア: 単行 ■文体レベルでの挑戦  古川日出男が雑誌『文藝』の2006年春号、秋号および2007年夏号にそれぞれ掲載した3つの中篇、「ハル、ハル、ハル」「スローモーション」「8ドッグズ」を掲載した中篇集である。三作品とも、それぞれの主人公が読者に直接語りかけるような書き方がなされ、さらにはいずれの作品も、現在形や体言止めが多用され、ときには二文字三文字だけで一文や一段落が終わるような、実に疾走感溢れる叙述の仕方を行っている。その意欲的な叙述の試みは、それまでの伝統的な日小説の書き方からは大きく逸脱しているものであり、そのような文体的な試みと並んで、著は、それぞれの作品の「朗読」をライブで行うという小説を書く/読むからはさらに大きく外れたアクションを共に行っている。  文章内でも太字による

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    massunnk 2007/09/23
    「全身運動としての読書経験」
  • 相対化する倫理的価値観の果てで、我々は何を選び取るべきか - らいたーずのーと

    ■伊藤計劃『虐殺器官』  まずは伊藤計劃の『虐殺器官』の話から。『虐殺器官』は、近未来を舞台にした軍事SF。9,11後の社会、テロが撲滅された代わりに後進諸国において内戦や民族虐殺が繰り返される時代に、それらの虐殺の背後に常に存在しているとされている謎の米国人、ジョン・ポール。彼の暗殺を命じられた特殊部隊の兵士、クラヴィス・シェパード大尉の語りで進められるこの物語は、id:sakstyle氏が評価しているように、救いも何もない物の地獄を見せつける、『グリーン・マイル』的なホラーを感じさせる作品である。 私がこの作品において最も心を動かされた部分は、この作品における「良心」というものの扱い方である。近未来を舞台にしたこの作品において、「良心」はその存在を科学的に証明させられるほどのレベルに至っている。たとえば以下のように。 「良心とは、要するに人間の脳にあるさまざまな価値判断のバランスのこ

  • ゼロ年代の本当の想像力・1 「セカイ系」の「解体」 - らいたーずのーと

    ■宇野常寛は、雑誌『SFマガジン』における連載「ゼロ年代の想像力」において、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に端を発した「引きこもり」思想と、それを継承した「セカイ系」という物語ムーブメントを「90年代の古い想像力」であるとし、切り捨てる。そしてゼロ年代のいまを突き進む想像力を「決断主義」であるとし、さらに、来るべき10年代をリードするための新しい想像力を、以降の評論*1において展開すると宣言する。とりあえず、「ゼロ年代の想像力」の要約としては、やや簡単すぎるかもしれないが、こんなものでいいだろう。 ■そのうえで、まずは、この宇野の主張に対する違和感から表明していきたい。それは、「セカイ系」が「90年代的である」とする主張だ。表面的なところから疑問を呈するのであれば、そもそも「セカイ系」という言葉が使われ始めたのは2002年頃、立派なゼロ年代である。さらに「セカイ系」の代表作品とされている

  • ゼロ年代の本当の想像力・2 「きみとぼくの物語」の誕生と実態 - らいたーずのーと

    ■参考リンク『ゼロ年代の当の想像力・1 「セカイ系」の「解体」』http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20070801/1185975060 ■宇野常寛は「ゼロ年代の想像力」*1の中で、「1995年は特別な年であった」と告げた。それに倣って言うのであれば、私にとって「立ち止まらざるを得ない」年とは、1999年である。 ■1999年とはどのような年であったのか。それは、もちろん、社会状況的には、様々な不安をかかえながらも、ついにミレニアムを迎えようとする、直前の時代であった。何かが変わるかもしれない、でもその何かというのは何なのかはわからない。それでも、あまりにもひどすぎた90年代を、きっと、生まれ変わらせてくれる、そんな期待が時代にはあったかもしれない。そのような時代の中で、1999年は、恋愛ゲームというジャンルにおいて、二つの大きな作品を生み出した。まず第一

    massunnk
    massunnk 2007/08/03
    ときメモ2など、なつかすぃ
  • 「小説」は「物語・批評・文体」から構成されている - らいたーずのーと

    ■「小説は物語・批評・文体の3要素から構成されている」と言ったのはサークルの先輩だった。なるほど、上手いことを言うな、と感じた。もともと私が「小説」と「物語」を結構ごっちゃに使っていたため、そういう風に明確な違いが言葉の上ではっきりとしている例文を出してもらうとなかなか助かる場合がある。それぞれの要素の捉え方は必ずしもその先輩と一致しているわけではなかったようだが、「小説は物語・批評・文体の3要素から構成されている」という言葉自体は実に興味深い。 ■「物語」は言うまでもなく物語である。基的にこれがなければ小説は成り立たない*1。よって、「小説」と「物語」を比較するうえでの違いは次の2つの要素である。 ■まず「批評」。これは、最初聞いたときどういう意味かわからなかったが、どうやら、作者が作品に対してこめる意図、といったものらしい。「批評的な作品」と作品に対する評価が与えられることもあるが、

  • レビューについて - らいたーずのーと

    ■[雑記]レビューについて サークルでレビューを書いている。あるいはこのブログも、元々はレビューを書くために始めた。レビューを書くことは好きだ。レビューを書くことで、その書物を十分に理解することができる。評論であれば著者がいいたいことを。小説であれば自分がその小説を読んで感じたことを、整理できる。 でも、レビューの理想的な形って何だろう。 別にそんなこと考えずに好きなように書けばいいじゃないと言われるかもしれないが、なんか、僕って、そうやって自分の行動の方向性を決めないとすっきりしないタイプのようなのだ。自分が倫理学を選んだのもそのため。自分の人生の方向性を定めないと、それがたとえ欺瞞や気休めだとしても、すっきりしないのだ。 で、レビューの理想的な形って何だろう。 少なくとも、自分にとって、理想的な形とは。 元々、レビューを書きたいと思って最初に書いてみたかったレビューっていうのは、という

  • 学問バトン - らいたーずのーと

    え。 sak大先生から回ってきたのでやります。ただ、自分自身、たくさんの迷いがあり、また、いまだに学問をやっていないという自覚がありますので、正直、まともな内容とは相成りませんし、あくまでも「現在の」でしかないことは前置きしておきます。これからいくらでも変容しうるということです。もっと自信を持ちたいんですけれどね、自分の学究内容に。 ■あなたの専門・専攻・得意教科は? 倫理学。とりあえず、古代ギリシャ〜ローマの倫理学を射程に収めています。 ■あなたは、どのようなテーマに関心がありますか? 最終的には「自分にとっての幸福は何か」を見つけ出したいと思います。というよりもその探究自体が目的かな。 ■あなたは、なぜその専門・分野を選んだのですか? 自分のあらゆる行動に理由が欲しくなったのは高校生の後半くらいからだったのか、あるいはその前からだったのか。その答えが倫理学にあるような気がして。古代ギリ

    massunnk
    massunnk 2007/07/28
    おつかれさまです
  • 「ゼロ年代の想像力」第3回 - らいたーずのーと

    ■宇野常寛「ゼロ年代の想像力」は、雑誌『SFマガジン』7月号から始まった連載で、現在9月号までに第3回までが載っている。宇野はこの評論にて、「90年代の古い想像力を振り払い、ゼロ年代という今の想像力を見きわめ、その上でそれを乗り越える次の10年代の想像力を提示する」というようなことを目的としている。 はじめに、この連載の目的を簡単に説明しておく。まずは九〇年代の亡霊を祓い、ゾンビたちを速やかに退場させること。次にゼロ年代の「いま」と正しく向き合うこと。そして来るべき一〇年代の想像力のあり方を考えることである。『SFマガジン』7月号92ページ■宇野はこの「90年代の古い想像力」として、引きこもりの思想と呼ばれるものを挙げている。 この「古い想像力」を端的に言い表すならばそれは「引きこもり」の思想となる。その端的な例としては、一九九五年から九六年に放映され、メガヒットを記録したアニメ『新世紀エ

    massunnk
    massunnk 2007/07/28
    いまだに読んでない!
  • 女の子しかいない。 - らいたーずのーと

    ■昨年度後半のアニメにはとにかく可愛い妹キャラが多いなあ〜って思ってて、今年度に入ってからは一気に妹キャラ減ったよねって友人と話してた。じゃあ今年度の特徴って何だろうって思ったら、「メインキャラの中に男の子が登場しない百合アニメが多くね?」っていう結論に至った。そういえばそうかも!■代表的な作品はもちろん『らき☆すた』ですよ。とても話題になっていますね。さすが京アニ。はいはい京アニ。あの作品、最初は面白くねーだろって思ってたんだけど、監督が交代して数週間経った後から化けたね。なんていうか、単なる原作のアニメ化っていうのを越えたバラエティ番組化している。それも、三次元じゃ萌えられない動物化オタクどものためのバラエティ番組。ああ、彼らは声優という三次元には萌えられるようだけれど。そういう風に見ると『らき☆すた』超面白ぇ。『ドージンワーク』もそんな感じだね。AパートはAパートで頑張っているみたい

  • ケータイ小説と安価スレの物語 - らいたーずのーと

    ■ケータイ小説が流行っているらしい。Yoshiの『Deep Love』、美嘉の『恋空』といったところが有名作品のようだ。自分は今までまったく触れたことがなく、知識など何もなかったのだが、日、先ほどまで、サークルの先輩方とそのことについて話をしているうちに、なんとなく、ケータイ小説の作品構造っていうのはものすごく、「2ちゃんねるのVIP板安価スレにおける物語」に似ているんだな、ということを感じた。■どちらも、ノンフィクションとフィクションの融合というところが特徴だ。ただしここでいうノンフィクションというのは、当にノンフィクションであるかどうかということはあまり問題ではない。当然ケータイ小説の方ではフィクションのつもりで書いているのだろうが、そこには少なからず実体験が編みこまれていく。それがケータイ小説の特徴でもある以上。また安価スレの方も、一応は釣り宣言をしていない以上、ノンフィクション

  • 『電脳コイル』 - らいたーずのーと

    ■『電脳コイル』を見ていていつも思うのは、「電脳メガネ」って現実世界の携帯電話の比喩みたいなものだよなあってこと。一般社会には普通に流通していて、もはや生活必需品の類になっている。だけど大人はあんまり頻繁には使わなくて、むしろ子どもたちの方が、「必要以上の使い方」をよくしてしまう。それで、子どもは時に暴走して、違法や危険やアングラなことをしてしまう。まんま現代の携帯電話と同じなんだよね。こういうツールの宿命っちゃそうなのかもしれないけれど、ある程度やっぱり携帯電話の現状を意識しているんじゃないかって思ってしまう。よくよく考えればデンパとかガチャギリっていう仇名もちょっと「電話」に関係しているし、第9話の「あっちのミチコさん」では物語の重要なアイテムとして「電話」が用いられた。それでいてこの世界において電話が使われるときは、昔の子どもがしていたように指で電話の形を作るし、糸電話のようなものま

  • 宇野常寛「ゼロ年代の想像力」第2回 - らいたーずのーと

    ■宇野常寛「ゼロ年代の想像力」は、SFマガジンで連載されているサブカルチャー評論。2007年7月号から連載が始まって、現在第2回まで続いている*1。■そこで示されているのが「決断主義」と呼ばれる概念で、それは90年代後半のムーブメント、つまり「ひきこもり」的な「セカイ系」などに対して、2000年代初頭から文学、それを追いかけるようにしてサブカルチャー界に波及した新しいムーブメントのことを示す。宇野氏が説明する言葉を借りると、「引きこもって」いると、殺されてしまう(生き残れない)というサバイブ感覚というようなものらしい。そしてこの評論においては、90年代後半の「引きこもり」の思想がすでにゼロ年代前半には「決断主義」にシフトされていっているという現状を紹介した後に、このある種幼稚な開き直りの面を持つ決断主義をどうやったら乗り越えていけるのかというところを模索していくらしい。いつまでもいつまでも

  • 東浩紀・桜坂洋・新城カズマ「フィクションは何処へゆくのか 固有名とキャラクターをめぐって」(雑誌『ユリイカ』11月号) - らいたーずのーと

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