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ブックマーク / digi-log.blogspot.com (2)

  • 中国人の語る中華思想とは

    十代の最後の頃、中国人の集まりにやめとけばいいのにモンゴル人の友人を招いたことがある。モンゴルからの友人は当然のように中国は内モンゴルを「返還」すべきだと言う。一方の中国人は猛反対し激しい論戦になった。 大学生のときに住んでいた寮の半分くらいは中国人で、私はよく彼らと酒を飲んだ。彼らはすぐに日戦争責任を追求するし、東アジアにおける中国の覇権について話していた。彼らは結構普通に「日中国の一部です」と言っていた。私は、まあ幾分かは困りながらも、そういう話になると熱くなるタイプだったので日の正当性を訴えたり、逆に謝ったりしたものだった。 そもそも半分くらいの中国人は日語を話さなかったし、私も私で英語で上手く話せなかった。それに中国人の人名を中国語風の発音できないのだから、細かい話なんてできるわけがなかった。まあ、それでも異文化交流として楽しかった。 知性ある彼らが中国教育とメディア

  • 《場の論理》への抵抗

    往々にして《場の論理》は《個人の論理》を抑圧する。それは個人を平均化し続け、やがて自らもゆるやかな熱死を迎えてしまうだろう。いかに弱い個人が場の論理に対抗するのか。なんだかアブないような話だが、数点メモしておく。 よく成功には「主体性を発揮する」だとか「自由を尊重する」とか書いてある。正論だ。しかし、それは役に立たないことも多い。なぜなら、それは場を支配する者が取れる戦略だからだ。それは子に対しての親であり、部下に対しての上司だ。優れた親や上司が部下の主体性や自由を大切にすることは素晴しい。しかし、間違った親や上司に遭遇したときにはどうしたらいいのだろうか。そのような状況でどう「主体性」を発揮すればよいのだろうか。弱者に主体性を発揮する自由は与えられていないのだから。そもそも「強者」すら主体性を発揮できない空間で、どんな自由や主体性があろう? 問題は弱者がいかに場を改善するかである。別に

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