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ブックマーク / kaolu4s.sp.land.to (2)

  • 忸怩たるループ

    もどる ▼ 大塚英志がどこかで(あちこちで)、少女マンガの大きな特徴は、フキダシの外にモノローグないしそれに準ずるものが多用されることだ、といっていた。最近だと、三浦建太郎や板垣恵介が「少女マンガ的な手法」と評されたことを記憶されている方もいるかもしれませんが。 たとえばファンタジーでも少女マンガであるうちはこれはおおむね変わらなくて、紫堂恭子もやはり、ファンタジーというより少女マンガである。 かつて(つまりドン・キホーテの昔には)小説とはキャラの「言動」を描くものであって「内面」を描くものではなかった。その意味でカフカは正しく小説家なのだが、これが特異に見えるとすれば、われわれの時代が、言動から独立した「内面」をすでに前提しているからで、少女マンガの表現はその上になりたっている。 征矢友花『トッペンカムデンへようこそ』4。あいかわらず良い。ひきあいに出して申し訳ないけれど、紫堂恭子その他

    tappyon
    tappyon 2012/08/12
    モノローグ的な表現以外にも色々あったような気がするが、少女漫画の表現を男が取り入れたのは高橋しんだとか。最初かどうかは知らんが
  • 麻枝准とエロ CLOSED LOOP

    ▼ 忘れるはずのないことを忘れる、ということはあって、例えば三浦雅士の処女評論集は「私という現象」というのですが、そのとき三浦氏は宮澤賢治の詩(「春と修羅」序)のことを忘れていたそうです。それを何度も読んでもいれば、多大な影響を自覚しさえしていたにもかかわらず。似たようなタイトルをいくつもひねった末、「これだ」と決めたあとで気付いたという。 僕はといえば、ついでに今ごろ佐藤友哉「『世界』の終わり」が太宰の「道化の華」(あと「葉」)であることを思い出したり。をかしいか。なに、君だつて。 ▼ 25日のつづき。 他人(他者といってもべつにかまわないが)を認識する、とはどういうことか、いかにして可能か。 そういう問いがある。 この問いにはふたつの意味合いがある。 ひとつは、他人との絶望的な距離をどうやって埋めるか、ということ。もうひとつは、世界から「自分」や「他人」をどうやって分節するか、というこ

    tappyon
    tappyon 2011/11/13
    物語を見る人間とそれを進める人間の区別
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