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評論に関するvivit_jcのブックマーク (5)

  • ソーシャルゲーム批判 - しっきーのブログ

    どうしてソーシャルゲームを批判しなければならないのだろうか。僕が子供の頃、「ゲーム」は親にもまわりの大人にもいい顔をされないものだった。一見眉をしかめたくなるものであっても、目の前に現れた新しい「遊び」を安易に非難するべきではない。それは何より、小さな頃ゲームを手にしていた僕たち自身が一番わかっているはずだ。僕が大切にしていたゲームソフトの数々は、一部の「子供じみた」大人と、僕たち子供のためのものだった。 今は状況が違う。今の子供を持つ大人たちは、もう子供だった頃にゲームが身近だった世代だ。今や「ゲーム」は一大産業であり、日が世界に誇れる文化の一つとしても認められている。ゲームはもう子供だけのものとは言えないし、僕自身ももう子供ではなくなってしまった。 そして、僕は今ここで、「ゲーム」を批判しようとしている。新しく出てきた「ソーシャルゲーム」は家庭用ゲームを越えて、すでに国内のゲーム産業

    ソーシャルゲーム批判 - しっきーのブログ
    vivit_jc
    vivit_jc 2014/07/28
    言いたいことは伝わるけど長い。要約が欲しい
  • 北へ。の国から:ノベルゲームにおける「分岐」の軽視/ゲーム性の喪失と本質否定

    「まどか☆マギカ ポータブル」をプレイしていて改めて感じた、現行AVGの問題点をここに記しておこうかと思います。(当該ゲームの感想自体はこちら) なお、ここに記すAVGにおけるゲーム性変質の拡大とノベルゲームの衰退はリンクしている、とBLOG主は考えていますが、定量化が難しいので予想に留めます。また、もし相関があるとするならば、前者が後者を導いたと言うよりも、シナリオ作成の省力化・省コスト化に伴う物ではないかと言う予想は、容易にできるでしょう。論で詳述しますが、ゲーム性をもったシナリオ分岐は格段に難度が上がり、開発時間当たりのテキスト量、つまりコストを圧迫します。テキスト容量が肥大化を続けるトレンドの中にあっては、大きな問題となりますから。 さて、最初に改めて結論を書いておきます。 ・現行のシナリオ分岐型ゲームは、その質を見失い、ただの短編集になっている ・その質とは、シナリオ分岐に

    北へ。の国から:ノベルゲームにおける「分岐」の軽視/ゲーム性の喪失と本質否定
  • 《溶鉄の尖峰、ヴァラクート》アニメとしての『ビビッドレッド・オペレーション』 - うらがみらいぶらり

    どうやら某所でビビッドレッド・オペレーション視聴会、またの名を「ビビオペ強制視聴会」なるものが開催されたらしい。実に尊いことだと思う。2013年の先陣を切って現れた、大災害に等しいアニメをぶっ通しで観るなんて、常人の精神では考えもつかないことだろう。それを成し遂げた有志の方々には、畏敬の念を禁じ得ない。 それはそれとして、僕はビビッドレッド・オペレーションは素晴らしいアニメだと思う。だが同時に、ビビッドレッド・オペレーションほどクソなるアニメはないとも思っている。僕は常々こう語っている。「ビビオペは救いようのないクソだが、故に愛おしく、尊い作品だ」と。 そんなビビオペだが、一部の友人と以前から「ビビオペってヴァラクートじゃね?」ということを真面目に論議している。この言説は、あくまでフレームレベルであり、要素要素を徹底的に検証すると違うかもしれないが、ビビオペにそんなものを求めるのは筋違いと

    《溶鉄の尖峰、ヴァラクート》アニメとしての『ビビッドレッド・オペレーション』 - うらがみらいぶらり
    vivit_jc
    vivit_jc 2014/07/16
    アニメをデッキ構築に喩えた評論はさすがに初めてだ
  • 川端康成の嘘 - 翻訳論その他

    川端康成が自身の翻訳観・日語観を披歴した文章に「鳶の舞う西空」という随筆があって、精読したことがある。「『源氏物語』の作者に『紫式部日記』があった方がよいのか、なかった方がよいのか。なくてもよかった、むしろなければよかったと、私は思う時もある」という書き出しのこの随筆は、最初のほう「源氏物語」の英訳や日古典の現代語訳について取り留めのない話をしているけれど、半ばあたりでおもむろに「川嶋至」という名前を出し、そこから先、この人への反論となる。どうやら翻訳の話は枕にすぎなくて、反論が題であるようだ。川嶋至は知らない名前だったので、精読の一環として軽い気持ちで調べ始めたら、とまらなくなった。それで結局、国会図書館まで行くはめになった。もう十年くらい前の話になるけれども。 いま小谷野敦『川端康成伝 双面の人』を読んでいるのだが、読み始めてすぐ、この人の名前が出てきた。引用させてもらう。「川端

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  • 「主人公の特徴だけで作品を特徴付けたつもりになれる言葉」の過ちと罠 - ピアノ・ファイア

    先日、TwitterでこうしたポストがRTされてきたので、それについての話を少し。 「週刊少年ジャンプ」の編集方針は「友情、努力、勝利」から「運、血筋、才能」へ変化している(『反動世代』施光恒インタビューより)、ってそうなのか。ジャンプ読まないからよく分かんないけど。— ばく (@kapibaku) August 17, 2013 このインタビューというのが別に漫画評論の話ということはなさそうだし、引用しながら「ジャンプ読んでないからよくわからない」と書いていますから、この発言主に思うことは特にありません。 問題は、これが800人以上の人にRTされるほど反響があり、肯定と批判のいずれかにせよ、「根的な疑問」までは出ていないように思えたことでした。 ジャンプ漫画のキーワードと「負の神格化」 まずジャンプの編集方針という意味なら、元編集長の西村繁男さんは「最低どれかの要素を入れること」を伝え

    「主人公の特徴だけで作品を特徴付けたつもりになれる言葉」の過ちと罠 - ピアノ・ファイア
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