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battleship Yamatoに関するib700のブックマーク (5)

  • 戦艦大和の主砲塔、すべての所在を確認…呉市 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    太平洋戦争末期、米軍の攻撃で鹿児島沖に沈んだ戦艦「大和」の潜水調査を実施した広島県呉市の大和ミュージアムは、第2主砲塔の一部や、サーチライト「探照灯」、レーダー「電波探信儀」のアンテナなどを発見したと発表した。 これで計3か所のすべての主砲塔の所在が確認された。26日からの企画展で解説展示する。 第2主砲塔の一部は、船体から離れた状態で、砲室、旋回盤、上部給弾室が一体で見つかった。砲身は海底の土に埋まっているとみられる。砲室右側のカバーが外れ、目標物までの距離を測定する光学機器「測距儀」が露出していた。 探照灯は、船体中央部の煙突の左右の側面に複数設置されており、数千メートル先まで光が届く。直径1・5メートルで、当時では最大。今回の調査では船体から外れた状態で見つかった。 電波探信儀は、艦橋の上部に2基のアンテナが設置され、今回一部が見つかった。電波で対象物までの距離や方向を測定する。格子

    戦艦大和の主砲塔、すべての所在を確認…呉市 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
  • 戦艦大和:菊の紋章、実は小さかった 潜水調査で判明 | 毎日新聞

    太平洋戦争末期に鹿児島県沖で沈んだ日海軍の戦艦「大和」の艦首に付けられた菊の紋章が、過去の調査を基にした想定より小さいことが、広島県呉市による潜水調査で分かった。大和は極秘に設計され、設計図も焼却されてほとんど残っていないため、不明点も多い。今回の調査を受け、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)は「他の部位の大きさも従来の見方と異なる可能性が出てきた」としている。 大和は呉市にあった呉海軍工廠(こうしょう)で建造された。市は5月、鹿児島県枕崎市沖の水深約350メートル付近で調査し、約7000枚の写真と約50時間分の映像を撮影。日海軍の大型艦にしか付けられなかった艦首部分の菊の紋章も確認した。

    戦艦大和:菊の紋章、実は小さかった 潜水調査で判明 | 毎日新聞
  • 戦艦大和を潜水調査へ 広島・呉市が8000万円の予算計上 今春にも鹿児島南西沖で

    太平洋戦争で米軍に撃沈され、鹿児島県南西沖に沈む旧日海軍の戦艦「大和」を潜水調査するため、建造の地である広島県呉市は12日、平成27年度補正予算案に8千万円を計上したと明らかにした。今月開会する見通しの定例市議会に提案し、承認されれば今春にも調査を開始する。 費用には市の財源に加え、国の交付金を申請中。調査は民間業者に委託し、船上からの遠隔操作が可能な無人潜水探査機を使うという。 呉市によると昨年、戦後70年の節目を迎えたことも踏まえ、最新の技術で現状を細かく撮影し大和の資料を収集するのが目的で、写真や映像は大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)で展示する予定。船体の引き揚げは想定していない。 大和ミュージアムでは、これまでも民間事業者が撮影した大和の映像などを公開。開館10周年の昨年は、累計来館者数が1千万人に達した。呉市が、大和の潜水調査費用を予算計上するのは初めてという。

    戦艦大和を潜水調査へ 広島・呉市が8000万円の予算計上 今春にも鹿児島南西沖で
  • 戦艦の“極秘誕生”CGで…広島・呉 : 中国 : 旅ニュース : 新おとな総研 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    旧海軍が極秘裏に建造した戦艦の<誕生>時を紹介する企画展「戦艦大和・武蔵の進水式展―戦前戦後の時代を飾った船たち―」が12日、広島県呉市の大和ミュージアムで始まった。 当時世界最大で、完成後の写真がほとんどない2艦の進水式をコンピューターグラフィックス(CG)映像で再現、式の記念品など800点を並べ、建造に携わった人々の熱気を伝える。 かつて戦艦の進水式は5万人規模だったが、極秘に建造された「大和」「武蔵」の場合、それぞれ建造の事実を知る1000人ほどでひっそりと開催したという。 CGは、関係者の証言などを基に作成した約5分間の映像。「武蔵」の進水式で艦をつなぎ止めていた綱を切ったおの(8月2日まで公開)や、式の記念品だった海軍マーク入りの輪島塗の香入れなど貴重な品々も初公開した。 企画展の開幕式典には三木伸介・海自呉地方総監も招かれ、小村和年・呉市長は「CGでの再現は現代の技術があってこ

  • 「不沈艦だと信じていた」 戦艦大和の生還元乗組員、3月2日に大阪で「“最期”を語る講演」(1/2ページ) - MSN産経west

    史上最大の戦艦といわれた「大和」が東シナ海に沈んで69年となるのを前に、当時の乗組員で数少ない生還者の一人、北川茂さん(90)=三重県名張市=が、3月2日に大阪市内で開かれる講演会で、大和の“最期”の様子や思いを語る。「大和が沈んだら日は終わりだと思っていた」。だが、第二次大戦末期には大型艦の時代は去り、特攻作戦に向かう途中で撃沈され、悲運な末路をたどった大和。北川さんは「ほかに道はなかったのか」と今も悔やみつつ、語り継ぐ使命をかみしめている。 北川さんは昭和17年、18歳で海軍に志願し、20年2月、大和への乗り組みが決定。敵艦との距離を測り伝える担当で、甲板から高さ25メートル超の場所にある「測距所」が仕事場となった。 「まるで巨大な岩のようだった」。すでに戦闘も経験していたが、広島・呉港で初めて見た大和の威容には圧倒された。「装備も近代的で、全てが他の艦船と比べものにならなかった。大

    「不沈艦だと信じていた」 戦艦大和の生還元乗組員、3月2日に大阪で「“最期”を語る講演」(1/2ページ) - MSN産経west
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