ニセ科学批判は、(科学/非科学)という区別に準拠し、対象となる言説や技術を観察する。ところが、そうすると、(科学/非科学)を区別する当の判断基準そのものが科学的であるかどうかという議論が必ず起こる。さらにその基準の基準についても議論が起こり、再度(科学/非科学)の区別を適用せざるを得なくなり、永久にニセ科学批判は不確定となる。このような区別の自己適用から起こるパラドックスを「自己言及のパラドックス」という。簡単に言うと、科学とは何ぞやという問いは、永久に不確定であり、ニセ科学批判は永久に完全に成り立たないということである。真偽、善悪という区別も自己言及のパラドックスに陥り、結局、不毛な議論となる。 ニセ科学批判を脱パラドックス化するためには、同じ区別を遡るのではなく、別の多様な区別で観察する必要がある。例えば、(有用/無用)、(有害/無害)、(合理的/不合理)等という区別から観察してみるの
イギリスの哲学者ホワイトヘッドは、「西洋哲学の歴史はプラトンへの膨大な注釈である」と言った。同様に日本の怪獣映画の歴史は1954年の初代ゴジラに対する膨大なオマージュである。そういう意味で、今回の「シン・ゴジラ」もまた、初代ゴジラに対するオマージュ作品の一つであることに変わりはない。 しかし、「シン・ゴジラ」の質はこれまでのゴジラ映画とダントツに異なる。個人的に今回のゴジラはある種コペルニクス的転回というか、コロンブスのたまごというか、これまでゴジラ作品が新しく公開されるたびに抱いてきた違和感を解消してくれた。「災害としてのゴジラ」の徹底した描写である。 初代ゴジラは水爆の影響を受けて誕生した。日本に与えられるゴジラの傷跡は、単なる自然災害を超えた、水爆による「人災」としての意味合いも強かった。一方、それ以降のゴジラ映画、特に他の怪獣が出ないファーストへのオマージュが強い作品は、どうしても
鳴り物入りで登場したパナソニックのスマート家電の評判は、あまりよろしいものではない。なかでもいちいちタッチが必要であることは、インターネット上で酷評されている。行政の問題があることが「スマホでエアコン操作 パナソニック断念の不可思議 (写真=共同) :日本経済新聞」にて指摘されているが、本記事ではスマートという思想についてフォーカスしたい。 パナソニックのスマート家電シリーズでは、スマートフォン行った設定を家電製品に転送する際、必ず「タッチ」が必要となる。しかしこの「タッチ」なる部分に、我々が家電製品を使う際の、そしてそこから敷衍したところに存在する「開発者側が想定する間違った『便利さ』」が潜んでいるのではないかと思う。 真の「スマート」とは 「スマート家電」等と称した際、その「スマート」という単語はもはやどのような意味を持っているのかよく分からない存在となってしまっている。パナソニックは
この独自の社会哲学思想について分析を加え、今後、この思想が多くの人々にコミュニケートされていき、現代日本社会において、社会統合や自我統合の機能を果たすことができるか社会学的に検証していきたい。 さて、訂正可能性の哲学が言わんとすることは、真なる民主主義や平和を実現するためには、既存の社会の否定や修正ではなく、訂正によって可能となるということである。既存の社会の否定は左翼やリベラルの立場であり、既存の社会の修正は右翼や保守主義の立場に対応することになる。このような二つの対立する立場を止揚し、訂正する力のみが持続可能な社会を可能にするというのである。そして、明治維新や戦後の象徴天皇制などは、訂正する力の賜物だと主張している。これまでの日本社会の社会改革は、既存の社会体制を全否定する革命ではなく、また単なる伝統の修正でもないというのである。日本社会は、革命でもなく、伝統の継承でもなく、訂正する力
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