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社会学に関するmagician-of-posthumanのブックマーク (10)

  • つかそもそも社会学ってアカデミックな学問として認められたの? そっちの..

    つかそもそも社会学ってアカデミックな学問として認められたの? そっちのがびっくりだわ

    つかそもそも社会学ってアカデミックな学問として認められたの? そっちの..
    magician-of-posthuman
    magician-of-posthuman 2008/09/01
    社会学しか知らない奴とか社会理論しか知らない奴は、役に立たないよ。社会学・社会理論をやるなら学際的どころかトランス・ディシプリナリー(無論自然科学や人間科学も含めて)の百戦錬磨じゃないと駄目。
  • これからは「女性の社会進出」よりも「男性の家庭進出」を

    サラリーマン、子持ちの既婚男性として書く。 長く「女性の社会(会社)進出」が推進されてきたが、これからは「男性の家庭進出」も強く推進していきたい。家庭は会社よりも重要であり、いかに家庭で男性の地位を向上するかが、貧困戦争、テロ、格差、差別、いじめ、自殺、政治不信、環境破壊などの問題解決につながる。 「器洗い」や「風呂掃除」のような雑用ではなく、「どの部屋をどう使うか」「どんな家具をどう置くか」「家計の管理」「子供の教育方針」といった重要でクリエイティブな役割をもっと男性が担うべきだ。 これまで推進されてきた女性の社会進出について、止めはしないが、おすすめはしない。社会(会社)に進出してもロクなことがないのはだんだんわかってきたのではないだろうか。男性は、家庭において不当に貶められた地位への埋め合わせとして、社会的地位の向上を望んでいるにすぎない。女性にはそういうバカな男をうまく利用する

    これからは「女性の社会進出」よりも「男性の家庭進出」を
    magician-of-posthuman
    magician-of-posthuman 2008/08/19
    女性解放運動を担う組織内部が男中心で動いていたという自己言及的パラドクスを思い出した。男性の家庭進出を推奨する場合、どんな「男性の家庭進出を政治課題として挙げる政党」が<社会進出>するか楽しみだ。
  • それはインターネットに限られることでも無いと思う。

    そういう人は多いとは思うけれど、それはインターネットに限られることでも無いと思う。 大して中身も無いような書籍を、タイトルと流行に釣られて買ってしまって、積みになっていることと同じでしょ、 積みにならなくて、後で読んだとして、あとで俺こんなにを買ったんだぜと優越感に浸るのと似ていると思う。 中身の判断もつかずに、タイトルや流行、人の目をひくようなもの、他の人が好んでいるもの。 そういうものに釣られるのは大衆心理。 それがインターネットだと顕著になっただけ。 ブックマークなんてただで買える情報なのだからより顕著になるんだろうよ。 広義で言うソーシャルネットワークサービスが人気になればなるほど、大衆化されるのだから仕方がない。 コメントがばかばかしくなったとしても、そういう人たちが増えたとしても、さほど驚くべきコトでもないし、バカにすることでもない。 それが大衆。大衆とは元から愚かなも

    それはインターネットに限られることでも無いと思う。
    magician-of-posthuman
    magician-of-posthuman 2008/08/15
    「大衆というものを理解できるから俺はそれでいいと思うよ。」同感。
  • ―  《知》の即興空間  ―  ザフランスキー

    magician-of-posthuman
    magician-of-posthuman 2008/08/13
    やけに的確な観察を繰り広げているブロガーだなと思いきや、なんだ専門家か。
  • ニセ科学批判の脱パラドックス化 | 社会学玄論

    ニセ科学批判は、(科学/非科学)という区別に準拠し、対象となる言説や技術を観察する。ところが、そうすると、(科学/非科学)を区別する当の判断基準そのものが科学的であるかどうかという議論が必ず起こる。さらにその基準の基準についても議論が起こり、再度(科学/非科学)の区別を適用せざるを得なくなり、永久にニセ科学批判は不確定となる。このような区別の自己適用から起こるパラドックスを「自己言及のパラドックス」という。簡単に言うと、科学とは何ぞやという問いは、永久に不確定であり、ニセ科学批判は永久に完全に成り立たないということである。真偽、善悪という区別も自己言及のパラドックスに陥り、結局、不毛な議論となる。 ニセ科学批判を脱パラドックス化するためには、同じ区別を遡るのではなく、別の多様な区別で観察する必要がある。例えば、(有用/無用)、(有害/無害)、(合理的/不合理)等という区別から観察してみるの

    ニセ科学批判の脱パラドックス化 | 社会学玄論
    magician-of-posthuman
    magician-of-posthuman 2008/08/06
    そういえば私の社会学的な記事に対しても科学・宗教の区別で応戦してくるニセ科学批判論者がいたが、私が自然科学と社会科学を複合して言及した途端ダンマリになったな。てめえの科学的素養はどうした?と問いたい。
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    台北市立動物園と迪化街めぐり 子連れ台湾#5 年越し台湾旅行5日目、レジャーや友人との事を楽しむ日です。前日の様子はこちら www.oukakreuz.com 台北市立動物園へ パンダ館 パンダが見られるレストラン 迪化街へ 林茂森茶行でお茶を購入 小花園で刺繍グッズを購入 黒武士特色老火鍋で夕 台北市立動物園へ 松…

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    magician-of-posthuman
    magician-of-posthuman 2008/08/02
    安心していいよ。社会学しか知らない連中は役に立たないから。尤も、宮台先生は他の学問分野でもパーフェクトだろうけどw
  • No Hedge!

    イギリスの哲学者ホワイトヘッドは、「西洋哲学の歴史はプラトンへの膨大な注釈である」と言った。同様に日の怪獣映画歴史は1954年の初代ゴジラに対する膨大なオマージュである。そういう意味で、今回の「シン・ゴジラ」もまた、初代ゴジラに対するオマージュ作品の一つであることに変わりはない。 しかし、「シン・ゴジラ」の質はこれまでのゴジラ映画とダントツに異なる。個人的に今回のゴジラはある種コペルニクス的転回というか、コロンブスのたまごというか、これまでゴジラ作品が新しく公開されるたびに抱いてきた違和感を解消してくれた。「災害としてのゴジラ」の徹底した描写である。 初代ゴジラは水爆の影響を受けて誕生した。日に与えられるゴジラの傷跡は、単なる自然災害を超えた、水爆による「人災」としての意味合いも強かった。一方、それ以降のゴジラ映画、特に他の怪獣が出ないファーストへのオマージュが強い作品は、どうしても

    No Hedge!
    magician-of-posthuman
    magician-of-posthuman 2008/08/01
    社会学をやっているせいか、馴染み易いサイト。
  • スイーツ(笑)にさようなら! - 女。京大生の日記。

    私の好きなタイプは恋愛至上主義ではない人でかつ夢をもっている人。こういうタイプは時代がそうさせるのか大学生だからなのか当に少ない。天然記念物。サンショウウオ。なので、宴会の席なんかで『MGさんは素敵なのに彼氏いないんですか?』と聞かれるけれど、『いやぁもてないからいないですよー。』と軽く遠くを眺めつつ。でも実は結構コクられている、なんちゃって。意外にモテルタイプだったりして。なんてお調子者。イヤン。でも、それらしいアプローチは全部断ってるんだってさ。だってどうでもいい彼氏とかいらないでしょーって?『彼氏欲しいなぁ』なんて言ってるスイーツ(笑)の会話には『そうだねー』なんて乗ってるフリをしているけれど、モーニング娘。イエーイ!あたしゃ内心、実(ジツ)は欲しくない。私、あたいは、すごく自立しているタイプなので、1人でもいろいろ楽しめるタイプだし、友人も多い。スイーツ(笑)の話題についていけな

    magician-of-posthuman
    magician-of-posthuman 2008/07/30
    ネタか否かという筆者の意図にも「スイーツ(笑)」というメルクマールにも無関心だが、ポストモダン的な恋愛論としては面白い記事。ネオ・フランクフルト学派のメディア論を恋愛に適用させるとこうなるのかもしれない
  • 请稍等,正在进入...

    magician-of-posthuman
    magician-of-posthuman 2008/07/29
    ポスト・ヒューマンは、実はニーチェが言っていた超人だったりする。
  • 社会学玄論

    この独自の社会哲学思想について分析を加え、今後、この思想が多くの人々にコミュニケートされていき、現代日社会において、社会統合や自我統合の機能を果たすことができるか社会学的に検証していきたい。 さて、訂正可能性の哲学が言わんとすることは、真なる民主主義や平和を実現するためには、既存の社会の否定や修正ではなく、訂正によって可能となるということである。既存の社会の否定は左翼やリベラルの立場であり、既存の社会の修正は右翼や保守主義の立場に対応することになる。このような二つの対立する立場を止揚し、訂正する力のみが持続可能な社会を可能にするというのである。そして、明治維新や戦後の象徴天皇制などは、訂正する力の賜物だと主張している。これまでの日社会の社会改革は、既存の社会体制を全否定する革命ではなく、また単なる伝統の修正でもないというのである。日社会は、革命でもなく、伝統の継承でもなく、訂正する力

    社会学玄論
    magician-of-posthuman
    magician-of-posthuman 2008/07/03
    社会学を社会学する自己言及ブログ。社会理論を「概念の遊戯」・「言葉遊び」と短絡してしまうセンス・レスなブロガーには、まずこのブログを読むことをお勧めする。
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