![Amazon.co.jp: なぜ「自由」は不自由なのか 現代のリベラリズム講義: 仲正昌樹: 本](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/007516e1b0c1366faa6358a47734d40f753b770f/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fm.media-amazon.com%2Fimages%2FI%2F4103P2cStSL._SL500_.jpg)
以前今はなき玲奈さんのご厚意でアップしていただいていたものだが、消滅して久しいのでこちらにアップする。 ======================== 少々長い旅になったが、このあたりでいったん筆は置かれる。その前に、少し違った角度からこれまでの議論を総括してみよう。 本書前半で提示した私なりの権力概念はかなり常識的なものであり、とりわけそれが権力を振るわれると感じ、それに服従する側の主体の自覚、了解を媒介としてはたらくものと定義されている点で、少々時代遅れである、と少なからぬ読者の方は思われたかもしれない。とりわけ私は要所要所でミシェル・フーコーの所論をどちらかというと肯定的に参照しているのであり、彼フーコーこそは20世紀後半の科学的権力概念の革新者と見なされているのだから。 フーコーの権力概念が人を惹きつける理由のひとつは、不可視の、意識されず、了解されないままに作動するものとしての
【1】日本型のフリーター労働者は、ある種の「階層」である。 【2】1980年頃から、国際的に若年不安定労働層が大量に生み出され、今も増加し続けている。 日本型フリーターは、働きながら潜在的には永続的な失業状態にある。フリーター/ニート/ひきこもり/不登校者/野宿者…は、社会構造上はごく近いポジションにある。フリーターの数は、資本と国家の流れに従う限り、今後も確実に増え続ける。この流れは、放っておいては食い止められない。 【3】若年労働者は今後間違いなく、一部の「勝ち組」と大多数の「負け組」へと二極化してゆく。 それだけではない。フリーターの内側にも「勝ち組」と「負け組」が分岐する。資本・多国籍企業・国家の側は、意図的にこの二極化の流れを推し進めている。 【4】フリーターの一定部分は、このままでは野宿生活者化するだろう。 現時点でフリーターが野宿生活に「転落」せずに済むのは、その多くが自分の
三省堂本店で開催された立岩真也氏×稲葉振一郎氏トークセッションに参加してまいりました。以前ジュンク堂池袋本店で開催されたトークの続きとのことで、僕はそれには参加していなかったのですが、話の内容は立岩信也さんの関心テーマと稲葉振一郎さんの著作(『経済学という教養』、『「資本」論』)に関することでした。 ※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。 「社会の財を分配する正義はどのように根拠付けられるか」という問題に対して、 稲葉氏:(注意:kawakitaが稲葉氏の『「資本」論』を読んだ理解なので正確でない可能性があります。) 各人には市場に労働力を提供する人的「資本」があると擬制する。各人を人的資本という財産権を所有する主体とみなすことで社会権(生存権)を基礎付ける。 立岩氏: 人ごとに労働能力が違うのは当然。労働できるで
内藤朝雄氏とのメールのやり取りの一部を、許可を得てここに転載する。*1 わたしは「当事者主義」ではなく「他者のリベラリズム」の立場をとっています。 という内藤氏からのメッセージに対し、私はこちらのエントリーを提出した。 それへのお返事より。 *1:内藤氏のメールは、改行部分まで含め原文のまま。 私からのメールはブログ・エントリー用に体裁を変えたが、文章はそのまま。 上山和樹さま 拝見いたしました。 わたしは議論になると同じ点よりも、違う点に興味が集中するタイプなので、まず、 9割方賛成と前振りをして、おもむろに楽しい方をはじめます。 わたしは不平等を、さまざまな個別の領域ごとに、許容できる範囲内のものと、許容 できないものとに分ける必要があると思います。 言論のアリーナでの論理的思考能力に起因する不平等は、保持しなければならないと 思います。 論理的な矛盾を突くとか、統計データを示してでた
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く