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ブックマーク / ish.chu.jp (18)

  • ish☆サイボーグだから電気羊の夢は見ません

    permlink 移転のお知らせ | コメント (0) | ブログ・ネット 2007年08月27日 生産終了のエヴァンテをまとめ買い 9月中旬で生産終了になるエヴァンテ化粧液をまとめ買いしてしまいました。 化粧水はハイドロキノンとビタミンC誘導体を使って手作りしているのですが、この手作り化粧水は美白メインの「薬効狙い」なもの。それだけに、余りに使い続けるとかえって肌に負担がかかってしまう可能性があります。 そんなわけで、最近は手作りをメインに「お休み用」化粧水を時々、という構成にしているのですが、この「お休み用」に使っているのがファンケル エヴァンテの化粧水「しっとり」。 エヴァンテはアンチエイジング・リンクルケアがメインのファンケルの中でも一番優しいラインナップですが、このエヴァンテが続々と廃番になっています。 続きを読む "生産終了のエヴァンテをまとめ買い" permlink 生産終了

    massunnk
    massunnk 2012/05/28
    このブログの人いま何やってんだろうなー昔よく読んでた。
  • サイボーグ・ファシズム

    サイボーグ・ファシズムは「人間そっくりだが人間ではないもの」の思想である。 サイボーグ・ファシストは人間のフリをする。そのフリは極めて高度に完成されているため、「人間性」について人間たちより多く欠くところはない。 サイボーグ・ファシストは「人間の条件」をすべてクリアし、人間社会に人間として住む。 サイボーグ・ファシストは人間としてこの世界に生み出され、人間としての教育を受けたにも関わらず、「致命的」に異邦な者である。この違和は基調低音として響き続ける場合もあり、激烈な苦痛となり突然襲い来ることもある。根底にあるのは「わたしが人間であるとはどういうことか」という問いだ。 人間たちは、この問いに蓋をする。遺伝子から人権に至る様々な還元論により「とにかく人間なのだ」と結論付け、それを自らの支えとし、世界を水平化する。 サイボーグ・ファシストは問いを譲らない。この問いに答えはない以上、「正解」は一

    massunnk
    massunnk 2007/09/18
    ishさんのサイボーグ・ファシズム宣言
  • ひっぱたきたくなくても、ひっぱたく

    アンカテのessaさんが「赤木智弘にひっぱたかれたくない!」でとても面白いことを仰っています。 「『丸山眞男』をひっぱたきたい -- 31歳フリーター。希望は、戦争。」に対する反応で、ネットでの反応等から議論の流れはおおよそ掴んでいたものの、原文を読んで一つだけ「あっ」と思ったことがある、という内容。 それは、タイトルの「『丸山眞男』をひっぱたきたい」が何を意味しているのかということ。 essaさんは「丸山眞男」を、現在の思想状況を作り上げたものの象徴として用いられていると理解していたのですが、実際は「戦争が起これば、通常ではあり得ないような『立場の逆転』が起こりうる。丸山眞男をひっぱたけるのは、戦争においてだけだ」という、ずっと即物的な内容だったのです。 この「誤読」と「気付き」は、絶妙に知識人とそうではない者(にidentifyする者)のズレを表現していて、非常に興味深いです。加えて、

    massunnk
    massunnk 2007/08/19
    「ひっぱたく」ってことばのひびきがいいよな
  • mixiと女社会と「泥の文明」

    べにぢょのらぶこーるさんの「やっと分かったよ!ミクシィが”気持ち悪い”理由!!」が注目を浴びていますね。 答えは、”女社会だから。” もっと正確に表現すると、”女の子社会だから。” (・・・) 女の子は群れるのが好き。無所属では不安な生き物なのです。 ミクシィがこれだけ流行ったのは、女の子的な男性、あるいは女の子的な空気に抵抗がない男性が増えてきているということかもしれませんね。 mixiについてはずっと前に「mixi疲れと友達友達」というエントリを立てたのですが、脱会(敢えて「脱会」と書きたい)して以来、すっかり関心の外になっていました。 わたしの数少ない友人は、既にほとんどが脱会済み。そのうち一人再入会した子がいますが、水商売バイトの営業用アカウントです。要するに少ない友達のほぼすべてが「友達いない単独者タイプ」ということですね(笑)。「「めちゃモテ」と世界最強」でも書きましたが、も

    massunnk
    massunnk 2007/08/11
    こいつすごやばいよw「自信がなくてもあるフリをして力で突き進む道こそ侠気、と信じています」
  • 掃除革命的グラフィティ・アート - ish☆サイボーグだから電気羊の夢は見ません

    DesignWorksさんの「スプレーを一切使わない、街にも環境に優しいグラフィティアート」というエントリが面白いです。 使用しているのはスプレーではなくて、磨きのブラシや石鹸などの掃除道具です。(・・・)一部だけとは言え、とりあえず綺麗にしているので、ラクガキ等の行為にはあたらず、法律上は問題ないみたいで国は対処に困っているそうです。 つまり、何らかの塗料等を「加える」のではなく、付着した汚れを「取り除く」ことにより文字や絵を描いているわけです。 法の抜け道的に「うまいっ」というだけでなく、文字の性を絶妙に抉出したアートです。 そもそも、文字とは「削り取る」ものです。粘土板に刻まれた楔形文字を想起すればわかりやすいですが、もっと言えば「無人島に漂着した人間が、日にちを数えるために木に彫り付ける刻印」です。 物理的特性ことだけを言っているのではなく、象徴化=言語化とは、何かが「無い」こ

  • 岩明均『ヘウレーカ』 科学のディスクールと<真理>の鏡

    『ヘウレーカ』 岩明均 舞台は古代ローマ時代の都市シラクサ。時は第二次ポエニ戦争の最中、シラクサはローマにつくか、ハンニバルのカルタゴにつくかで揺れています。結局シラクサはカルタゴにつき、元は反カルタゴのために作られたアルキメデス発明による様々な武器で、迫り来るローマを撃退します。 しかし、『ヘウレーカ』は「戦記もの」「歴史もの」ではありません。主人公ダミッポスは勇猛で知られるスパルタ人ですが、飄々とした軟弱な風情で、むしろ知力を駆使して状況を切り抜けます。彼は「亡命者」であり、ローマにもカルタゴにもシラクサにも愛着はない。そして「超兵器」を作り出したはずのアルキメデスは、既に年老いて半ば呆け、シラクサが戦っているのがローマであるということすら認識できていません。 岩明均作品に通低するトーンとして、過剰な演出や起伏に乏しい傾向があります。物語的展開がない、という意味ではなく、むしろ残虐なま

  • 空気が読めない者、その罪状と判決 : ish☆サイボーグだから電気羊の夢は見ません

    今まで何度か「ブログを非-mixi的・非-お付き合いの道具的に使うこと」について書いてきました(※1)。コメント欄の敷居の高さや、ブログ全体で用意しておく殺気や「壁」についてです。 ところが、中には「壁」そのものが見えない人がいます。いわゆる「空気が読めない人」です。 防壁を突破してくる人というのは二極分化していて、片方は侠気と知性に溢れた好人物、そしてもう一方が防壁を認識する能力すらない「空気が読めない人」です。真ん中のメインストリームはバッサリ切り捨て、という問題は脇に避けておくとして(笑)、この「壁が見えない人」の威力は凄まじいです。 「壁が見えない人」も大別すると二種類いて、一つは古典的なパラノイア。 昔からリアルでも壊れている人になつかれる傾向が強いのですが、このブログのテクストが彼・彼女の宇宙に突然ヒットしてしまったらしく、「それは冥王界で言うところの下位の神ですね!」的な熱烈

  • 「わたしのことどう思う?」という問いは何を隠すのか

    「わたしのことどう思う?」。 この問いを受けた男性諸氏はさぞかし煩わしいことでしょうが、もちろん、男女を問わずこの問いは発せられます。つまり、「他人にとってわたしは何なのか」系の質問です。 こうした質問が大変魅力的なのは、心理テストに夢中になる人々からもわかります。また「外国人から見た日」といった語らいが衆目を惹くのも、同じ魅惑によるものです。 「わたしのことどう思う?」の問い-答えの反復は、大変楽しいです。特に「外国人から見た日」系には、わたしもかなり惹かれます。 しかし、この問いは決して<わたし>のことを明らかにしませんし、それゆえにこそ独特の快楽をもたらします。そしてこの気持ち良さは、「寛容さと共存の何が問題なのか」で触れた「寛容」の気持ち良さと欺瞞につながっています。 「わたしのことどう思う?」の気持ちよさは、ナルシシズムに由来します。 ただし、ここで言うナルシシズムとは、問い

  • 恋愛と郷愁

    ある男友達(もうずっと連絡も取っていませんが、厚かましく友人とさせて頂きます)から、すごいセリフを聞いたことがあります。 「子供は要らないけれど、自分のクローンを作りたい」。 わたしは「クローンを作りたい」という人の気持ちがまったく理解できないので、「なぜ?」と尋ねたところ、返ってきたのが、 「今まで人生で色々な選択をしてきた。あそこでああしていれば、と思うこともある。別の選択をしていたらどうなっていたのか、それが知りたい」 という答えでした。 そもそも、仮に遺伝子がまったく同じであったとしても、それは<わたし>とは全然関係のない人間なわけで、クローンに「パラレルワールドの自分」を託すことは馬鹿げた空想ではあるのですが、そのことは脇に置いておきましょう(当の彼もわかった上で「自分大好きっぷり」の半偽悪的表現としてこう語ったのではないかと思います)。 今、気になるのは、「あり得たかもしれない

    massunnk
    massunnk 2007/07/21
    「わたしたちが「現実性」を感じられるのは、それが否定されるかもしれない「可能性」があってのこと…「可能世界」とは、「この世界ではないもの」ではなく、「この世界」が成り立つために必要なフィクションです」
  • 文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害

    「webは『砂の文明』である」に続いて、『砂の文明・石の文明・泥の文明』をベースに考えてみます。 文化と文明。この手垢にまみれた弁別を、松健一さんは再定義することから始めます。 彼の認識によれば、文化とは「民族の生きるかたち」であり、文明とは「常に世界文明的」で「普遍性」を持つものです。 文化cultureは「cultivate 耕す・育む」に由来し、生命的で動かし難いインプリントされたイメージがあります。実際、cultureには「培養」といった意味もあります。 一方、文明civilizationは「civilize市民化・都市化」に由来し、一段抽象度の高いものです。文化がイマジネールであるのに対し、文明はサンボリックである、とも言えます。 松健一さんがこの弁別を敢えて持ち出すのは、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』的言説に対抗するためです。ハンチントンは、文化を文明の下位概念と

  • メールを出さなければ電車に乗り遅れられるのか、誰が電車に乗ったのか、愛は終着駅で致命的出会いにたどり着くのか

    文学・思想 / メールを出さなければ電車に乗り遅れられるのか、誰が電車に乗ったのか、愛は終着駅で致命的出会いにたどり着くのか 「虚空に向かって書くからこそ丁寧に書く」「なぜコメントの敷居を高くするのか」で、このブログのスタイルが「一方通行」であることについて考えてみたのですが、そもそも私信というものをほとんど書かなくなった気がします(件のエントリで「特定の誰か」という表現をしたため、公開私信的なものと誤解されてしまった方がいるようですが、これは定冠詞の総称的用法というか、「死者への手紙」のような意味で、まったく交通可能性のないものです)。 何度も同じ言い訳をしますが、「やりとり」のすべてを拒否しているわけではまったくありませんし、壁を作った上でその壁を認識できる人が乗り越えて来てくれた時には、面白い出会いになることもあります(つい最近もありました)。世の中には、壁そのものが見えない恐れ気な

  • バカ正直こそ最も危険な反権力分子

    依然拘留中の外山恒一さんが、拘置所からブログを更新しています。平均的日国民に比べ、拘留・逮捕といった経験を圧倒的にポジティヴに使える立場にいるとはいえ、拘置所生活が楽しいわけはないでしょう。わたしの会った限りでの彼はブログの文面ほどダークな人物では全然ないのですが、いい加減腐った気持ちになっているかもしれません。 例によって気とも煽りともつかないトーンで、謀略説まがいのことを主張していることもあります。「外山陣営はすべてがトロすぎる」で書きましたが、わたしはこの件について、99%ウラはないだろう、と思っています。別段根拠はないので、深い政治的力動が働いている可能性もゼロではありません。しかし今考えているのは、わかりやすい「謀略」でも平凡な(?)お役所的拘留でもなく、より根的なところで彼の存在が「反権力」であり、余りに「反権力」すぎて権力自身が誰一人「危険だ」「陥れてやれ」といった意識

  • 革命家は制止を振り切ってゴミを拾え

    しあわせのかたちさんに個人主義者は「公園のゴミ」を拾えるか?というエントリがあります。「公園に落ちているゴミを拾うか否か」を素材に、「個人主義」の立場とそこで見落とされている視点を整理したものです。 「公園をキレイにしたい人もいれば汚くても構わないという人もいる。キレイにしたい人が多数派なら、議会等で決めて清掃員を雇えばよい」という「個人主義者」の論理には「人が社会を作る以前に社会が人を作るという視点」、つまり広義の教育的見方が欠落している、という論旨です。 「見落とされている」視点にツッコむ、というテクストですが、そこでさらに見落とされている重要なポイントをツッコませて頂きます。 といっても、別段反論でもなければ、個人主義を巡る議論を発展させるものでもありません。 テクストの題とは全然関係ない、細部への混ぜっ返し、「ゴミを拾う」こと自体の意味についてです。 このテクストでは、「ゴミを拾

    massunnk
    massunnk 2007/07/09
    その発想はなかったわ
  • ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる

    最近吹風日記さんの「最近の若者は当にいたか、とカントは言った、皆がを書いている」というエントリでベタ褒めな紹介のされ方をしてしまって、ちょっとキンチョーしています。この吹風日記さん、根が暗いのでリファラを辿って発見したのですが、ウチのようなヘンなブログを評価してくださるだけあって、極私的にかなりヒットでした。 件のエントリは、引用の適切さ・信憑性といった論点を切り口にして展開していくものですが、まず「最近の若者は・・」というネタからしてヤラれました。ツカミが上手いですよね(笑)。 このテクスト後半に以下のような下りがあります。 理想を言えば、「アシモフが言ったから正しい」とか「朝日新聞が言ったから正しい」とか「アルファブロガーが言ったから正しい」とか「アー」とか、そういう判断のしかたをやめて、1つ1つの主張を検証するべきなんでしょう。要するに「だれが書いたか」で判断するのではなく「何を

  • ish☆走れ雑学女ブログ さておかれない冗談、外山恒一

    統一地方選後半戦も選挙期間が終了したところで、外山恒一さんさんについてメモします。 彼の政見放送が話題になっているのは知っていたのですが、そういう「ネットで話題の」一般が煩わしく、敢えて距離を置いていました。そもそも都知事選自体、出来の悪い芝居を見せられているようで、とても積極的な関心を持つことができないでいました。 政見放送を拝見したのは都知事選投票日直前になってからで、ちょっと後悔しました。今回ばかりは「話題」に乗っていた方が正解でした。 一見パラノイア風ですが、最後の「わたしもビビる」からもわかる通り、機知に富んだ人物です。パラノイアにああいう台詞は操れません。 ではまったくの「ネタ」としてやっているのかというと、そうではない。むしろ気の気だからこそ、機知を発揮する。 この態度は美しい。 冗談はしばしば「冗談はさておいて」、その後「当」が始まるものですが、「さておかれ」た後にリ

  • 『ウィトゲンシュタインはこう考えた』鬼界彰夫

    『ウィトゲンシュタインはこう考えた』鬼界彰夫 これはなかなかすごいでした。 ウィトゲンシュタインの「著書」としてまとめられているテクストを、いくつかの「スレッド」の並走として解析、一見アフォリズム的・断章的な独特の文章構成を非常に明快に整理しています。とりわけ『探求』について、これほど親切に解説してくれている書籍というのはまずないのではないかと思います。 「『論考』はともかく『探求』は結局何が言いたいのかさっぱりわかんないよ!」と思っていながら恥ずかしくて口に出せなかった人は結構多いのではないでしょうか。ハイ、わたしです。というより、正直『探求』にこんなにちゃんとした流れがあること自体、信じていませんでした。 アマゾンのレビューで「永井均さんの『ウィトゲンシュタイン入門』の次に読む」といった紹介をされている方がいらっしゃいましたが、初心者にはわかりやすい流れでしょうね。ちなみに『ウィト

  • 『ラカンとポストフェミニズム』、性別化の定式

    『ラカンとポストフェミニズム』 エリザベス・ライト 椎名美智 『ウィトゲンシュタインと精神分析』に続いて岩波の「ポストモダン・ブックス」シリーズ、『ラカンとポストフェミニズム』。 こちらもペラペラで字が大きい素晴らしいで、同じく一時間くらいで読み終わりますが、同様に一時間でわかるかというと、そうでもないところがちょっと違います(笑)。 ラカンとフェミニズムと言えばセミネールXX「アンコール Encore」。 「女は存在しない」とか「性的関係は存在しない」といったラカンのセンセーショナルな台詞が取り上げられるたびに引っ張り出されるセミネールで、狭い意味での性別や性差に関心があり、かつうっかりラカンに興味など持ってしまった人間は必ず読むハメになる定番の一冊です。 未だ邦訳が存在しないので、小賢しい大学生は原書と英訳をひっくり返しながらゼミで順番が来る日に怯え、「フランス語でも英語でも日語で

  • 『ウィトゲンシュタインと精神分析』、自然にしていたら自然にできない

    久しぶりに屋さんで現代思想関係のコーナーに行き、なんとなく手に取った一冊。 『ウィトゲンシュタインと精神分析』 ジョン・M.ヒートン JohnM.Heaton 土平紀子 一頃「ウィゲンシュタイン」「フロイト」等、思想家の名前をズバリタイトルにした概説書シリーズがあちこちから出ていましたが、それもネタが尽きたのか(笑)、岩波の「ポストモダン・ブックス」は「ダナ・ハラウェイと遺伝子組替え品」や「ハイデガーとハバーマスと携帯電話」等と合わせ技で攻めています。 この手の平べったいには批判の向きもあるでしょうが、最近わたしが思想関連の書籍に期待するのは、思考の触媒になってくれることくらいなので、そういう意味では結構役に立ちました。 小気味良い文体で翻訳もなかなかテンポ良く、とにかく薄くて字が大きいので(笑)一時間とかからず読み終えられます。 大雑把に言って、いわゆる「後期」ウィトゲンシュタイン

    massunnk
    massunnk 2007/02/08
    「自然さ」への強迫
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