キジ焼き丼とおばんざい シンプルな我が家の定番のおばんざいたち 赤梅酢の新生姜漬け 昨夜は香ばしいきじ焼き丼に添えて。大きめにカットした鶏とししとうを魚グリルでこんがり焼く。 タレをつけながら煙モクモク、焼き鳥屋さんみたいな香ばしい香りがキッチンいっぱいに広がります 磯の味も…
天理大学生涯教育専攻研究室HPトップへ ・「ふたつの「対抗文化」論をめぐって - ウィリスの「野郎ども」とサックスの「ホットロッダー」 - 」『天理大学生涯教育研究』no.2,pp.31-44.天理大学人間学部人間関係学科生涯教育専攻研究室(1998/3/22) 0:はじめに 私たちが「教育」について語ろうとするとき、往々にして、そこになにかしら「キレイゴト」のニュアンスが漂うことになる。そのことは、皮肉にも、学校教育について語るとき以上に、学校以外での教育を語るときに、よりはっきりとする。私たちは、制度化され日常化された「学校」については批判(あるいは感情的な非難)の言葉をいくらでも口にすることができるが、そのぶん一層、「本当の、あるべき教育の理想像」を、制度的・日常的な学校以外の場面に見出そうとする傾向があるのだ。そのために、往々にして、学校外の教育については、理想化されたイメージが先
私は18歳のころネットで勧められて詩手帖に投稿しようかと思い始めた。投稿するための作品を準備し始めたのがちょうど大晦日のころで、コタツに入りながら作品を一週間ためて、そのときにできたのが「苦行」だった。はじめてなので勝手がわからないしそのほかにもいろいろつめこんだ分厚い封筒を送って、それでもう私は一回忘れた。載るとかそういうのが目的と言うよりは出すことが重労働過ぎた。 そういえば私は「現代詩」を書き始めたのが17歳前後のころで、同時にネットで投稿を始めた。書き始めのころ書いた作品が詩集にもある「小牛に朝を」で、たぶん書き始めてから5作品目ぐらい?だった。詩集に入れたものでこれが一番古い。書き始めたときは一回きりのつもりで、だからペンネームもいい加減に決めた。まさか5年以上も使うとは思わなかった。あとこまっているのがまったくデータを残していないので、書き始めたとき17歳にもうなっていたのかど
DAY 1 退職を決めたあとの諸々所用で出発が遅れてすっかり寒くなってしまった。 11月25日。無能・不細工・非コミュにして存在価値ゼロ・・・いや、マイナスいくらかの穀潰し、コンビニ食系中年男子の私はれいによって誰にも告げず、誰にも見送られず、今月の家賃の振込みを終えると、そのまま愛車のアレックス1号にテントと寝袋、いくらかの荷物を縛り、ユニクロあんぱん配給騒ぎで民度の高さをありのままに示した横浜伊勢佐木長者町を出発。川崎・品川を抜けて、まずは東京を目指す。 平日の夕刻、東京の街には背広を着て入館証を首からぶらさげたSE・PGが満ち溢れていた。 プログラムのロジックを競っているうちは良かった。けれどもそんなものは仕事の本質じゃない。跳びぬけた才能を持つごく一部を除いて、団子の背比べ。無能プログラマな俺の脳内は一般論としてのミュージシャンを「夢見る」フリーターと同じで、日々仕事帰りに考える仕
M-1グランプリ創設の目的 島田紳助が『M-1グランプリ』を創設した目的については、色んな所で深く詳しく語っていますが、ここで一番重要なポイントだけを出すと、「漫才を復権しないといけない」というものでした。つまり98年とか99年の段階で、漫才というのは島田紳助が「復権させないといけない」と思うような所まで衰退していた。 もちろんこの時点で、吉本のなんばグランド花月には、数年前の新喜劇ブームの影響で、お客さんは沢山入っていましたし、漫才師だってその後のお笑いブームの初期を支える人たちは、既に沢山デビューしていました。だからここでの「漫才が衰退している」というのは、メディアの上の話と考えていいでしょう。 テレビで漫才を披露する機会が無くなっている。それが故に新しい人が、漫才を目指さないことの危機感などが、『松紳』という番組で島田紳助と松本人志の二人が、「漫才を捨てた負い目」と共に、度々語る姿が
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