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中上健次に関するmurashitのブックマーク (2)

  • 坂のある非風景 夏なればこそ、かすんだ視界でよしとできるか

    もう内臓がボロボロなんだと語る中上健次に、年に千人程度無頭児というのが生まれる、それに中上の脳を移植して再生すればいい、といった会話がなされ、発禁処分になった対談集があったらしいが、現在、誰かは、たえず中上の脳を受け継いだ無脳児ではないかと思っている。でも彼は小説を書いていない。なぜか。 望んだわけでもない生を生きることの意味が、ひとにとってどれほど苦痛に満ちた核となりうるのか。といった真面目そうな問いも問うてみたい。耐えるという抵抗しかなかった場所で、それ以上の抵抗があることを中上健次はみせたし、その「それ以上の抵抗」だけが抵抗の終焉を含んでいた。 どれほど死んでも殺され続ける世界だけが私たちを生かす。それが時には書く理由であり書かない理由だったが、もっとも評価されていない彼の発言「吉隆明全著作集15巻を全部読んだ」はふかく評価されるべきだろう。場所の持つ宿命的な杭に打ち抜かれた精神を

  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●中上健次をちょっとずつ読み返しているのだが、中上健次はホラーとして読むととても面白い。特に、秋幸三部作とそれに先行する「蝸牛」「補陀落」は、ぼくにはホラーとしか思えない。 秋幸のやろうとしていることは、象徴的な父殺しなどではないように思う。むしろ、母性的な空間に埋もれていることと父の不在によって、能動性が欠如し、行為の失調を強いられて苦しむ秋幸が(秋幸の能動性は土方仕事の現場-純粋な行為としてしか発現されない)、なんとかして自分の力で父を創出-建立しようとするのだが、しかしそれに失敗しつづける、というのが秋幸シリーズの一貫した主題ではないか。つまり、父の殺害ではなく、父の建立こそが主題であるように思う。 その試行と失調としてあらわれる細部の様々な形象が、その感触が、とてもホラー的なのだ。例えば秋幸には姉が二人いて、家が二つあり(母の家と姉の家)、「あの男」とは別の、形式的な父の位置を占め

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