ウェブ上の地図をどんどん拡大していくと、ある縮尺で地下鉄の出入り口表示がぐいっとあらわれる。その「ぐいっと」「にょきっと」な感じが、まるで駅に手足が生えたみたいで、かわいい。しかも、いろんな形のやつがいて、おもしろい。虫みたい。 かわいらしいので、ここはぜひ、採集して標本にしてやろうとおもったのだ。
(承前) 価値観点はダメだ! となると、量的な評価基準を採用するのはどうだろう、という検討が次におこなわれます。結果間の比較を統一的な価値尺度、例えばお金、の大小比較によって最適性を導き出してはどうか、ということですね。しかし、ここにも可測性の限界があるとルーマンは指摘しています。量的な評価をおこなうといっても、すべての結果が同一の測度で量化なんかできないでしょ、というのがここで問題になるのですね。家を建てたときの便益と、物置を建てたときの便益をお金に換算なんかできないでしょ、と。仮にそうした数値化が可能な数式があったとしても、そんなのイチイチお役所でやってたら「経済的な決定の計算にかかる費用が高すぎる」 = 合理的な決定をおこなうことが非合理になってしまう。この部分、とても面白いんですが、この論文が書かれた1960年時点と現代では計算コストはかなり下がってるのでなんでも数式化できたら必ず
コミュニケーションがボトルネックになった社会。 「リア充はみんな死んでしまえ」~「人とのつながり」が重視される現在の就活の落とし穴~ 就活生に甘える社会人 リンク先で触れられているように、コネにせよソーシャルメディアの活用にせよ、今、人と人とを繋ぐコミュニケーションの技能が求められている。 企業が就活生に「コミュニケーション能力」を求めるようになって久しい。その、コミュニケーション至上主義的な雰囲気はこれまで何度も批判されてきたが、コミュニケーションの技能を求める向きはいっこうに変わらないか、むしろエスカレートすらしているように見える。 コミュニケーションの技能とは、それほどまでに重要なもの、らしい。なら、どうしてそれほどまでにコミュニケーションの技能が問われるようになっているのか?それについて、書き残してみる。 コミュニケーション能力を問われない仕事が少なすぎる あらかじめ断っておくが、
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