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歴史と歴史認識に関するquagmaのブックマーク (6)

  • 「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」第1回、第2回を見て(追記あり) - Apeman’s diary

    この番組について書く前にとりあげたいもあり、また第3回、第4回も見たうえで評価したいということもあって、とりあえず思ったことを漫然と書いておくことにする。 1月16日に放送された第2回「巨大組織“陸軍” 暴走のメカニズム」について、hokusyu さんが次のようにコメントしておられる。 昨日のNHK戦争話は、まあ実証歴史学の罠というか。よくあるホロコースト機能派批判がそのまま通用してしまう感じ。つまりカタストロフがあたかも「運命」であったかのように物語られることですが。 (http://twitter.com/#!/hokusyu82/status/26857725812019200) たしかに「暴走のメカニズム」といったタイトルは視聴者にそうした「物語」を暗示しかねない。第1回の導入部では当時の軍・政府関係者の戦後の発言が紹介されていたが、佐藤賢了の次のような発言*1は「カタストロフ

    「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」第1回、第2回を見て(追記あり) - Apeman’s diary
  • 「最終的解決」はむしろ現在進められつつある - Apeman’s diary

    ツイッターではすでに指摘しておられる人もいるが、念のためこちらでも。「最終(的)解決」という用語は日の同盟国であったドイツの国家犯罪の(当事者が用いた)婉曲表現であるがゆえに注意を要するものではあるが、戦後補償問題という文脈においてはより切実な問題がある。先日、名古屋空襲で両足を失った女性の妹の「国は戦災傷害者が死ぬのを待っている」という言葉(を伝える記事)を紹介した。名古屋空襲の被災者は他地域の戦争被害者とともに今年「全国空襲被害者連絡協議会」を結成して国に補償を求める活動をしているが、国内外で公的な補償を求めている人々が共通して口にするのが「日政府はわれわれが死ぬのを待っているのではないか?」という言葉だ。日政府の中で特定の個人が明確にそうしたことを意識して対応を決めているかどうかは別として、従来とおりの不作為を続けることがどのような結果につながるかは明白である。したがって、戦後

    「最終的解決」はむしろ現在進められつつある - Apeman’s diary
  • 「龍馬人気」に疑問 - Apeman’s diary

    昨年の総選挙前に、地元の候補者への「尊敬する人物」というアンケートへの回答をブログのネタにしたことがあったが、そのときにも複数の票を集めていた坂龍馬。その龍馬人気について10月5日の朝日新聞(大阪社)朝刊オピニオン欄で野田正彰氏が「龍馬にしがみつくのは成熟拒否の表れ」「軍国主義に利用された過去も。勝手な使い方はもうやめよ」などと批判的なコメントを。 ――坂龍馬はなぜ、こんなに人気があるんでしょうか。 「龍馬とは青春像そのものです。30代前半で暗殺されてしまって、中年以降がない。もし龍馬が明治維新以降も生きていたら、時代を切り開く若々しいイメージを投影することは難しかったと思います。(後略)」 ――いつまでも龍馬のように若々しくいたい。それはいいことなのでは? 「いえ、成熟拒否です。来、人は年齢を重ねるとそれなりに成熟していかないといけない。なのに青春像にしがみつくのは、申し訳ないで

    「龍馬人気」に疑問 - Apeman’s diary
    quagma
    quagma 2010/10/09
    いまだに「改革」に夢見る龍馬ワナビーうざい!!現実見ろ!!/エントリそのものは抑え目なのに、コメント欄及びブクマコメの皆さんが熱すぎて、禿同しつつ笑った…いやーみんな(私も)溜飲下げてんだろなー
  • 韓国併合100年をめぐる両国若者の討論番組を視て - 醍醐聰のブログ

    意見の開き以前の歴史への知見の格差 昨日は百年前に韓国併合条約が締結された日である。NHKは8月14日に「日の、これから ともに語ろう日韓の未来」と題して、日韓の若者がスタジオで討論する番組を放送した(8月7日録画)。そのなかで、出演した日のある若者が韓国併合について、「韓国と日は、同じ大日帝国の一員として、一緒に英米と戦った戦友だ。」「韓国併合のときは、韓国人を虐殺したわけではなく、帝国主義の時代でやむを得ずにやっただけだ」と発言した。これに対し、番組に出演していた崔洋一映画監督は、そうしたイデオロギーが当時の日を支配していたことを認めながらも、そのために韓国併合があったというのはとんでもない史観だと指摘し、「36年間にわたる植民地支配がそれによって肯定されるという考え方では、基的に歴史を語る資格がない」と批判した。放送後、この崔発言をめぐってネット上で「言論封殺だ」という反

    韓国併合100年をめぐる両国若者の討論番組を視て - 醍醐聰のブログ
    quagma
    quagma 2010/09/14
    NHK番組についてのまとめ。概ね肯けるが"「歴史を語る資格がない」という崔監督の発言は適切さを欠いていた"とする点には疑問。崔氏の憤りに対し「適切さを欠く」などと論評することが果たして「適切」なのか。
  • 「否定論」への「寛容」はありえない  - 過ぎ去ろうとしない過去

    インターネットがコミュニケーションのあり方を革命的に変容させるのだ!というITピューリタン的発想にはまったく組しないのだが、もし、インターネットがわれわれの生活世界におけるコミュニケーションに影響を与えているとするなら、それは、「無知」がますます言い訳として通用しなくなったということがあげられるかもしれない。誰でも簡単に情報にアクセスできることは、「無知」であることと「悪」であることの区別をつきにくくしている*1。たとえば、われわれは、専門的な研究会に出席したり、難解な学術書をいくつも読みこなしたりせずとも、1クリックで南京大虐殺があったということを知ることができる。また、その否定論が、いかにロジックとして稚拙であり、学問的な真剣さに事欠いているかを知ることができるのである。 さらに、その否定論が打ち出す「南京問題」なるものが、いかに中国に対する蔑視感情と自民族中心的なナショナリズムを背景

    「否定論」への「寛容」はありえない  - 過ぎ去ろうとしない過去
    quagma
    quagma 2010/04/03
    "「過去」と向き合わないことの言い訳に現代思想が使われるなら、それはもはや…ただの「悪」""「否定論」とはすなわち、「過去」の抹殺であり…倫理的な責任の否認""あらゆる否定論はそれ自体で排外主義を構成"
  • http://twitter.com/hazuma/status/11358225858

    http://twitter.com/hazuma/status/11358225858
    quagma
    quagma 2010/04/01
    「南京問題」なる言葉、初耳。「南京問題はなかった」って、意味不明。なんとしても「南京(大)虐殺」又は「南京事件」という言葉を使うまいとしておかしなことになっているものと思われる。
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