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warとOkinawaに関するume-yのブックマーク (12)

  • 「さとうきび畑」の歌は、本土側の「沖縄幻想」だったか?: 極東ブログ

    この話は、『考える生き方』(参照)に書かなかった沖縄の話の一部です。というか、途中で削除しました。理由は、単に書籍に取り込む話題のバランスのためでした。つまり、ページ数との関係で沖縄の話の比重が重すぎるのもどうかなということでした。 「さとうきび畑」の歌の風景 土復帰の前、土側で沖縄を思ってよく歌われた歌に「さとうきび畑」がある。 「ざわわ、ざわわ」というフレーズが繰り替えされ、広大なさとうきび畑に風が抜けていくようすが印象的だ。歌には、海の向こうから戦争がやってきて、鉄の雨に打たれうたれて父は死んでいったというストーリーが盛り込まれている。土では当然ながら、これは沖縄戦を示していると普通に理解される。 そして沖縄でもそう理解され、この歌が歌われていると思っている。 たしかに、現代の沖縄ではそのように理解されている。 歌われていないとは言えない。 だが、私が暮らし始めた1995年頃、

    ume-y
    ume-y 2013/02/26
    「摩文仁の丘から見た戦争当時の風景は、稲作地ではなかったか」
  • 毎日新聞社説 社説:憲法記念日に考える 「安保」の将来含め論憲を - 毎日jp(毎日新聞) - finalventの日記

    ああナイチャー。 沖縄は太平洋戦争末期、米軍との激戦で多くの犠牲者を出した。米軍は戦後、「銃剣とブルドーザー」で基地を拡大した。土復帰後38年になるが、在日米軍基地の4分の3が集中したままだ。怒りのマグマはきっかけさえあればいつでも噴出する状態だった。沖縄の過剰な基地負担の軽減が緊急課題であることを改めて示したのも今回の事態だ。 沖縄戦で犠牲を出したのは、基的には、日側のミス。日国は非戦闘員を守る義務がある。これを「米軍との激戦で多くの犠牲者を出した」としゃらっと言ってのけるのがナイチャー。 「米軍は戦後、「銃剣とブルドーザー」で基地を拡大した」けど、そもそも軍政下におかれていた。内地も軍政下にあったけど、その後の対応はどうだったかという点で沖縄も見ていく必要がある。もうちょっというと、日が「独立」したとき、日ではない沖縄に米軍が移されたりした。であれば、沖縄が日に復帰したら

    毎日新聞社説 社説:憲法記念日に考える 「安保」の将来含め論憲を - 毎日jp(毎日新聞) - finalventの日記
    ume-y
    ume-y 2010/05/11
    「沖縄戦で犠牲を出したのは、基本的には、日本側のミス。日本国は非戦闘員を守る義務がある。これを「米軍との激戦で多くの犠牲者を出した」としゃらっと言ってのけるのがナイチャー」
  • 朝日社説 あの戦争の記憶―世代を超え、橋を架ける - finalventの日記

    驚かされる数字がある。被爆地にある長崎総合科学大学の平和文化研究所が、同大の学生を対象に行った昨年の調査で、「終戦の日」がいつかを正しく答えられたのは33.2%。15年ほど前は5〜6割台だった。 9月7日。朝日新聞の執筆子も答えられたかな。 「お国のために何でもやる。そんな教育に従って生きてしまった気がする」と、振り返った元兵長がいた。 「強盗、強姦(ごうかん)、殺人、放火……。軍命とはいえ、罪の気持ちはある。でも謝るすべを知りません」。工兵隊にいた人は声を絞りだした。 話の最後に「無我夢中でゲリラを突き刺した」と、打ち明けた人もいた。 予備校の先生は、中国で捕虜の任に充てられ、捕虜を放置していけと軍命が下ったが無視して必死に解放に尽力してひどい目にあった。さらに軍命に反したということで死地に飛ばされもした。よく生きていたもんだねと学生ながら思ったのだが、その他のエピソードを聞くに、中国

    朝日社説 あの戦争の記憶―世代を超え、橋を架ける - finalventの日記
  • 朝日社説 asahi.com(朝日新聞社):社説 2009年8月10日(月)広島 長崎 沖縄―平和のジレンマ解く道を - finalventの日記

    コバルト色の東シナ海を望む沖縄県恩納村の海岸近くに、複数のトンネルを横に並べたような巨大建造物が立っている。冷戦期の1960年代に配備されていた中距離核弾頭ミサイル「メースB」発射基地の跡である。 全長13メートルの核ミサイルは、広島型原爆並みの威力を持っていたとされる。今は宗教法人の施設となっているコンクリートの塊は、東西両陣営がお互いののど元に核ミサイルを突きつけ合っていた生々しい現実を、21世紀の今も見せつけている。復帰前の沖縄とはいえ、この列島に核ミサイル基地が存在していたという事実は、戦後日の核をめぐる宿命を象徴している。 S学会ですよ。それはさておき、「復帰前の沖縄とはいえ、この列島に核ミサイル基地が存在していた」のは、非核三原則が沖縄排除で成立していたという内地の欺瞞の象徴ですよ。 沖縄への言及もあるが。 それを象徴したのが、北朝鮮が核実験を強行した3年前に、沖縄の人々が見

    朝日社説 asahi.com(朝日新聞社):社説 2009年8月10日(月)広島 長崎 沖縄―平和のジレンマ解く道を - finalventの日記
    ume-y
    ume-y 2009/08/10
    「運動にかかわらなかった人の話もきちんと聞いたほうがいいよ。  そしてこの社説、核を抱えた「中国」が一言も出て来ない」
  • NHK 戦場を駆けた少年兵たち 〜沖縄県・鉄血勤皇隊〜、見たよ - finalventの日記

    ⇒証言記録 兵士たちの戦争 戦場を駆けた少年兵たち 〜沖縄県・鉄血勤皇隊〜 太平洋戦争終盤の昭和20年3月、アメリカ軍の上陸が近づいた沖縄で、14歳から17歳の中学生たちが兵士として招集された。その名は、鉄血勤皇隊。軍国主義教育を受けてきた彼らは、軍服と銃を支給され、喜び勇んで入隊する。しかし、初めて体験する物の戦場は、少年たちの想像以上に過酷なものだった。聞かされていた戦況とは異なり、圧倒的な戦力で沖縄に上陸したアメリカ軍は、日軍の頭上に砲弾の雨を降らせる。激闘は続き、後方支援要員であった少年たちの命も、次々に奪われていった。 土決戦を遅らせる防波堤の役割も担わされた沖縄戦。番組では沖縄県立第一中学校の元少年兵の証言から、子どもたちが目の当たりにした地上戦の実態を描き出す。 大田先生の監修だった。ので、そのトーンといえばそのトーンなのだが、出てくるおじーたちの語りに独特の味わいがあ

    NHK 戦場を駆けた少年兵たち 〜沖縄県・鉄血勤皇隊〜、見たよ - finalventの日記
  • 朝日社説 asahi.com(朝日新聞社):社説 2009年6月25日(木)沖縄戦の記憶―「声の礎」を刻み続けたいを - finalventの日記

    沖縄で修学旅行をガイドする「沖縄平和ネットワーク」は、かつての戦場を背景に、体験者の証言を映像と音声で残す取り組みを進める。 それはいいことなんだが、確か私の沖縄生活での記憶だが、以前もこうした取り組みはやっていて書き起こしされていない録音テープが大量に結局破棄されたことがあったような。ああ、もったいないなと痛切に思ったことがあるので記憶に残っている。その関連だったか、誰か関連の人に書き起こしくらすればいいのにときいたのだが、若い人はウチナーグチわからんからねみたいな回答もあった。非難して言うのではないが聴き取り側も昔のウチナーグチがよくわかってないのと、聴き取りの要領を得てないようだった。 連想で思い出すのだが、私自身がなんとなくおりに触れて沖縄戦のことを聞いたときの印象だがどうも公式な答えというのと、酒席での答えが違う。前者嘘というのではないが、後者は笑いのなかにどうしようもない悲惨が

    朝日社説 asahi.com(朝日新聞社):社説 2009年6月25日(木)沖縄戦の記憶―「声の礎」を刻み続けたいを - finalventの日記
  • 対馬丸メモリアルデー: 極東ブログ

    1944年の8月22日、那覇港から出た学童疎開船「対馬丸」が、鹿児島県悪石島付近で米海軍潜水艦ボーフィン号の魚雷により撃沈された。氏名判明者に限定すれば、学童775人を含む1418人の民間人がこの攻撃で殺された。僅かに59人の学童は救出された。この殺戮については日では当時機密ということになったが、県民の多くは戦中この惨劇を知っていたようだ。 それから60年を経た今日、この惨事を追悼すべく、那覇市若狭の遭難学童慰霊「小桜の塔」近くに「対馬丸記念館」(参照)が開館されることになった。 なぜこれほどの惨事になったのか、なぜ米軍は民間人を大量殺戮したのか。しかし、冷徹に歴史を見ればそれほど不思議はない。当時187隻の疎開船により約8万人にもが安全に疎開できていた。また、米軍はすでに商船も攻撃対象としていた。対馬丸は商船と見られていた。 当時、潜水艦ボーフィン号で魚雷発射任務に就いていた米海軍下士

  • 毎日社説 社説:沖縄戦学習 力合わせ実りあるものに - 毎日jp(毎日新聞) - finalventの日記

    沖縄戦は実際に現地で自分で調べた範囲ではかなり重要なことが依然わかっていない。古老の証言からは、通説と違う証言もある。 部分によっては右派左派にとっても都合の悪いさまざまなディテールがあり、こうしたイデオロギー的な枠組みをいったん除いたほうがいいと思うのだが、そうもいかないのだろう。 学童疎開船「対馬丸」撃沈の惨劇。そして今の中学、高校生の年代に相当する男女学徒らを「鉄の暴風」と呼ばれる戦場に動員した沖縄戦は、学校教育の場で児童生徒の心をより深くとらえ、考えさせる。 一般住民を巻き込み、犠牲を強いる総力戦。土決戦準備のための時間稼ぎをする「捨て石」とされた沖縄戦は、最後は住民も見捨て、集団自決にも追い込んだ。さらに戦後の米軍統治、復帰後も続く広大な基地の圧迫。今もあの戦いの延長上に沖縄はある。 対馬丸には以前少し触れた。 ⇒極東ブログ: 対馬丸メモリアルデー このころはまだ自分は沖縄生活

    ume-y
    ume-y 2008/07/01
    「戦後日本が米国から独立した52年から72年まで日本国から見捨てられた沖縄米軍統治時代とはなんだったかを本土の人が学習しないと、いつまでたっても現代の沖縄理解など得られない」
  • 朝日社説 沖縄慰霊の日―本土に届け、戦争の記憶 : asahi.com(朝日新聞社):社説 - finalventの日記

    ひめゆり学徒隊の証言を記録した映画「ひめゆり」は公開2年目だ。今年も全国で再上映が予定される。 沖縄を訪れる修学旅行生は06年の統計で約44万人。観光客は500万人を超える。戦跡に足を運ぶ人を増やせる可能性は十分にある。 沖縄戦で何があったのか。それを知ることは、土の人たちにとっても、とても大きな意味がある。 映画なんかではわからない部分はあるよ。そしてもうさすがに古老も尽きてきた。 これもできたら読んどけ。できたら初版も読んだ方がいいけど。 ⇒「 ひめゆり忠臣蔵: 吉田 司: 」 増殖するノンフィクション。1993年初版、1994年削除改訂、そして2000年増補新版。汚れなき沖縄の精神的聖域「ひめゆり伝説」の偽善的平和を暴く大胆な論考に話題騒然、非難轟轟の嵐を受け、41ヵ所の削除を余儀なくされた問題作が、70ページの増補を加えて蘇る!沖縄と併走しながらニッポン精神構造の暗部を描く天下

    朝日社説 沖縄慰霊の日―本土に届け、戦争の記憶 : asahi.com(朝日新聞社):社説 - finalventの日記
  • 朝日社説 集団自決検定―教科書会社は筋を通せ説 - finalventの日記

    おや?と思った。今日も共産党大会の話題がない。これはなんかあるな。なんだろ。大筋で朝日は上海閥の鼻息フンっがなければ傍観的暢気な胡耀邦シンパだろうと思うのでその流れでなんとなく親胡錦濤系だろう。現状の流れでいうと上海閥掃討みたいなことは不可能っぽいし。 で、煙幕社説は何の話題か? と読むと、どうでもいいや、こんなの。私は文科省イラネだし。というのと、朝日のこの社説に顕著なんだけど、実は史実に関心ないのな。それと何が問題かを明確にしない。「日軍に強いられた」のは否定できるわけでもない。それが問題なのかとすればほぼナンセンス(否定できるわけないのだから)、それとも問題は日軍が軍の指揮系として住民を軍に組織化して自殺を命じたかということかというと、そのあたりはボケている。というか、大筋で「日軍に強いられた」のは否定できるわけでもないのだから、その指揮系の問題をどう評価するか。そしてその史実

    朝日社説 集団自決検定―教科書会社は筋を通せ説 - finalventの日記
    ume-y
    ume-y 2007/10/17
    "なにより、実際の戦死者の個別の状況の解明やいまだにガマに眠る住民の遺骨収集などを進めて記録していただきたい、というか、それを事実上放置しているに近い状況では沖縄戦の史実の解明が進んでいるとは思えない"
  • finalventの日記 - 朝日社説 小田実氏死去—市民参加の道を示した

    おやおや朝日新聞が社説で。そういうものかと読む。ベ平連の話から「その後」でイラク戦争が接合されている文章というのは珍妙なものだなと思った。文革もポルポトもない戦後左翼の歴史か。 こうした市民運動のやり方は、さまざまな住民運動のほか、のちの非営利組織(NPO)や非政府組織(NGO)の活動にも影響を与えた。その原点をたどれば、組織よりも個人の自由な発想を大事にする小田さんの個性があった。 小田さんはその後も、阪神大震災の被災者救援や、憲法を守る「九条の会」などで、いつも社会にかかわっていくという姿勢を貫いてきた。 いま、イラク戦争に反対する声が世界に満ち、反戦デモもあちこちで見られるが、日では大勢の人々が加わる反戦デモは影をひそめた。ベ平連が活発に動いていた時代の熱気は失われた。 沖縄で暮らしながら私は私なりにベトナム戦争の傷跡を探った。沖縄はベトナム戦争の当事者に巻き込まれていた。内地人に

    finalventの日記 - 朝日社説 小田実氏死去—市民参加の道を示した
    ume-y
    ume-y 2007/07/31
    「だがそのなかで生きて行かなくてはならない人間は反戦活動をするのではなく、恋をしたりロックを歌う」
  • 沖縄本土復帰記念日: 極東ブログ

    今日は沖縄土復帰記念日だが何十周年という節目でもないせいか、大手新聞でも社説で触れるところがなかった。社説執筆者が単に失念していただけのことかもしれないし、こんなのネタにならないよ、と見なされたのかもしれない。どっちだろうか。私も、なぜかこの話題に今日触れたいとも思わないのだが、昨日の琉球新報の記事を読んでしばし天を仰いだ。 記事は”「核密約」遺書でわびる 密使として関与の故・若泉敬氏”(参照)だ。標題を見て推測がつく人も多いだろう。 著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」の中で沖縄返還交渉において、自らが佐藤栄作首相=当時=の密使として核持ち込み密約にかかわったことを告白した元京都産業大学教授・若泉敬氏(1996年死去=享年66歳)の遺書の写しがこのほど、関係者の手により明らかになった。遺書は1994年6月23日の日付で、県民と、当時の大田昌秀県知事(現参院議員)あて。この中では、核持ち込

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