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  • 坂のある非風景 夏なればこそ、かすんだ視界でよしとできるか

    もう内臓がボロボロなんだと語る中上健次に、年に千人程度無頭児というのが生まれる、それに中上の脳を移植して再生すればいい、といった会話がなされ、発禁処分になった対談集があったらしいが、現在、誰かは、たえず中上の脳を受け継いだ無脳児ではないかと思っている。でも彼は小説を書いていない。なぜか。 望んだわけでもない生を生きることの意味が、ひとにとってどれほど苦痛に満ちた核となりうるのか。といった真面目そうな問いも問うてみたい。耐えるという抵抗しかなかった場所で、それ以上の抵抗があることを中上健次はみせたし、その「それ以上の抵抗」だけが抵抗の終焉を含んでいた。 どれほど死んでも殺され続ける世界だけが私たちを生かす。それが時には書く理由であり書かない理由だったが、もっとも評価されていない彼の発言「吉隆明全著作集15巻を全部読んだ」はふかく評価されるべきだろう。場所の持つ宿命的な杭に打ち抜かれた精神を

  • 坂のある非風景 詩が生き延びる道を教えよ

    ブランショがジュリアン・グラックの小説の評を書いている。なぜ小説は詩を引き寄せるのか。自由に書けなくするためだった。溢れ出る言葉をそのまま書くことを禁じるためだった。詩的形式は小説の賦活剤だった。ブランショの読みでは、グラックは小説の生き延びる道を教えていた。 しかしグラックの小説はすでに詩ではないのか。だとすれば、それこそ真の継承者は裏切り者であるという言葉どおりに、詩になることが小説の生き延びる道だと語っているのだろうか。それに、徹底的に詩的形式を借りた小説と、散文詩との違いをどう見分けるというのだろう。おそらく、けっして見分けられないその違いは決定的な違いなのだ。 散文詩とは、徹底的に詩的形式を借りた小説が、結局「生き延びることのできなかった」姿ではないかと考えてみたい。グラック以降、詩による小説の否定を、どこまでも小説の側で耐えきったものはいなかった。小説はゆるゆると小説に帰ってい

    murashit
    murashit 2009/10/29
    伊藤比呂美の「河原荒草」を読んでいてにたようなことを考えた
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