大和川の付け替えは、洪水の被害に悩まされた農民の度重なる嘆願と、川の改修に尽くしたものの洪水がどうにも治まらない結果、ついに江戸幕府が行った大規模な公共工事です。 工事は元禄17年(1704年)2月から、その年の宝永元年(1704年途中改元あり)の10月までのおよそ8ヶ月間で行われました。工事区間を数箇所に分けて、いくつかの大名に工事を請け負い競わせたり、川を掘るのではなく堤を築いて川を作って行く工法によって工事は早く終わることができました。 寛永泉州大絵図抄録(写) 寛永16年(1639) 大和川付け替え前の堺の絵図で、大和川はまだなく、三方を濠で囲まれた堺の町が描かれています。 河内堺新川絵図 文化3年(1806) 大和川付け替えにあたり、流域の村々への告知を目的に配布された絵図です。絵図には付け替え後の川が「新川」と書かれています。また「御鍬初」とある2月27日は工事が始まった日です
大和川の吾彦大橋から西方向(下流)を見た風景です。 川の向こうは大阪市住吉区です。 写真の場所の正確度 ★★★
堺市内で5日夜に発生した局地的豪雨による大和川沿いの浸水被害で、市は8日、水位を見誤り、警戒水位に達していないにもかかわらず大和川近くの2カ所の水門を閉じたことが浸水の原因とみられると発表した。床上や床下の被害は計90件にのぼり、市は被害者への補償を検討している。 市によると、同日午後8時半すぎ、大和川や近くの水門の水位を確認している市の委託を受けた業者が「大和川の水位が6メートルを超えてきている」と、市上下水道局に連絡。水門の担当職員は逆流を防ぐため、その業者に対し、川近くの2カ所の水門を閉じるよう指示。業者は操作ボタンを押して閉門した。 マニュアルでは警戒水位約6メートルに達するなどした場合、閉門することになっている。ところが、指示のあと職員が大和川の水位計を確認したところ、実際には4メートルしかなく、業者が水位を間違えていたことが判明。職員は閉門から20分後の午後9時、2カ所の水門を
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