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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/matsuiism (37)

  • 大航海時代の豊臣秀吉 - heuristic ways

    マルクスがヘーゲルの弁証法について、「神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならない」と言ったことはよく知られている。 坂口安吾が「小西行長」で書いたことは、マルクスの言葉をもじって言えば、こういうことではないだろうか。「秀吉の朝鮮出兵という非合理的な外皮のなかに合理的な核心(海外貿易)を発見するためには、それをひっくり返さなければならない」。 だが、私はやはりそこに何か引っかかるもの、どこか釈然としないものを感じる。たとえば近代日の侵略戦争について、次のように主張することは可能だろうか。「近代日の侵略戦争という非合理的な外皮のなかに合理的な核心(東アジア諸国の近代化・資主義化)を発見するためには、それをひっくり返さなければならない」。 たしかにそういう風にひっくり返したい人たちは存在していて、「歴史修正主義者」と呼ばれる人たちは「合理的な核心

  • メモ〜川と堤防の話 - heuristic ways

    小松裕『田中正造――二一世紀への思想人』で言及されていた富山和子『水と緑と土』のことが結構気になったので、図書館で借りてみた。まだ最初のほうを少し読んだだけだが、そこで語られている近代日の河川法制定(1896年)以降の「川と堤防」の攻防の展開は、まさに「矛」と「盾」の故事成語を地で行くような話で*1、ほとんど知的な興奮を覚えた。すなわち、どんな大豪雨時の川の流量にも耐えられるように設計された堤防と、どんな大規模な堤防をも越えてしまう川の大洪水との「矛盾」。興味深いのは、今日われわれにとってお馴染みの言葉になった「未曾有」とか「想定外」という問題が、すでにここで現われていることである。 長くなるが、いくつかに区切って引用しよう。 まず第一ラウンド。 利根川の全水系にまたがる大改修工事が着手されたのは、明治三十三年であった。このときの計画高水流量は、埼玉県栗橋地点で毎秒三七五〇立方メートルと

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    ishikawa-kz 2011/12/06
    ちょうど瓦礫処理を考えてたところで勉強になる。
  • 荒畑寒村『谷中村滅亡史』など - heuristic ways

    G.K.チェスタートンのブラウン神父シリーズのある有名作品(1911年発表)に、「木を隠すなら森の中へ」云々という有名な言葉がある。正確には、次のようなセリフらしい(某サイトより引用)。「賢い人は葉をどこへ隠す? 森の中だ。森がない時は、自分で森を作る。一枚の枯れ葉を隠したいと願う者は、枯れ葉の林をこしらえあげるだろう。死体を隠したいと思う者は、死体の山をこしらえてそれを隠すだろう」  足尾銅山の経営者はまず、「銅山の廃棄物(捨石)を隠すには川の中へ」と考え、それを実行したわけだが、川に大洪水が起きると、そのためにかえって近隣の地域と住民に鉱毒の被害が拡大してしまった。では、鉱毒の被害を隠すためには? 荒畑寒村『谷中村滅亡史』を読むと、奇想天外なまでに大掛かりで、ポウの「盗まれた手紙」の大臣を思わせるほどに大胆不敵な犯行の手口(トリック)が、フィクションではなく、現実に組織的に実行されたと

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    ishikawa-kz 2011/11/26
    「鉱毒の被害を隠すためには、その告発者や被害民を黙らせればいい、または、遠くへ追いやってしまえばいいというのが、鉱業主と結託した政府や県の方針」
  • 足尾銅山鉱毒事件をめぐって 2 - heuristic ways

    牧原憲夫氏は、足尾銅山が「生産合理性、経営合理性ではきわめて優れ」た、「当時の最先端技術を導入した近代的鉱山」だったことに注意を促している。 古河市兵衛は坑内外を民間初の電話で結び、選別機械や新型溶鉱炉を導入したほか、水力発電所を建設して排水ポンプ・巻揚機を電動化し、坑口と精錬所の間に電気鉄道を敷設した。また製品輸送のために、山を越えた日光との間をロープウェイで結び、東北線を利用するルートを開発した。帝国大学卒の技術者や慶応出身の事務職も採用した。この時期、銅は生糸・茶などとともに日の主要輸出品だったが、こうした努力の結果、九一年の産銅量は八八年の三七〇〇トンから七五〇〇トンに増大し、足尾だけで全国産銅量の三九%を占めた。労働者数も八三年の九〇〇人弱から九六年には一万人を超えた。「坑夫(タタキ)六年、溶鉱夫(フキ)八年、カカアばかりが五十年」と歌われたように、労働条件は劣悪で労働者の生

    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2011/11/26
    「「最先端技術」を駆使した「生産合理性、経営合理性」と、地域社会や環境への悪影響(不経済な負担や非合理な汚染)、さらに「労働条件は劣悪で労働者の生命は使い捨て」という事実とが、矛盾しないばかりか、」
  • 近代の弁証法 - heuristic ways

    このところ渡辺京二氏のばかり読んでいる。いろいろ疑問や反撥を感じるところはあるものの、基的にはヘーゲルやマルクスの発想のポイントを押さえており、日歴史を問い直す姿勢があり、カール・ポランニーやイヴァン・イリイチからもヒントを得ているあたり、私の基的な問題関心と重なるところが多いのである。 『なぜいま人類史か』によると、氏は一九八五〜八六年に熊の真宗寺で「人類史講義」と銘打って、月に二回、仏教青年会や地元の参加者たちに話をしていたらしい。*1 その内容は以下のようなものだったという。 そういう次第でこれまで私は、「人類史講義」という題目で、まずニホンザルの社会を皮切りに、ローレンツの動物行動学、ポルトマンの人間早産説、サーリンズの石器時代論、中井久夫さんによる分裂病親和気質の人類史的な位置づけ、阿部正晴さんのアフリカの基層文明論、白川静さんの甲骨文研究といったふうな順序で話を進め

    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2011/09/02
    「逆に、丸山氏の説は「実は人間がなんら自然に規定・拘束されぬ自由な存在だ」という主張に通じている点で、むしろ「デカルト主義・人間中心主義の最新の偽装形態」にほかならないと喝破する」
  • 渡辺京二『逝きし世の面影』をめぐって - heuristic ways

    渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005年、原著1998年)は、「明治末期にその滅亡がほぼ確認され」た一つの特異な文明、「十八世紀初頭に確立し、十九世紀を通じて存続した古い日の生活様式」の特徴を、当時の「異邦人観察者の著述」を通じて復元しようとした試みである。 その際、著者は、異邦人(主に欧米人)の観察記録がどこまで信用できるのか、彼らが描く日が「美化された幻影」のように見えるのはなぜなのかといった方法上の問題に多くの紙幅を費やしている。 平凡社ライブラリー版の「あとがき」で、著者は、「世間には、私が日はこんなにいい国だったのだぞと威張ったのだと思う人、いや思いたい人が案の定いた」という反応について書いている(ちなみに、私も書がそういう風に読まれているらしいと知って、あまり読む気が起こらなかった)。 私はたしかに、古き日が夢のように美しい国だという外国人の言説を紹

    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2011/08/28
    「渡辺氏が注目しているのは、おそらく「古き日本」の実像というより、「古き日本」を訪れた欧米人たちが驚きやめまいのように感じたその「視差」なのである。」
  • 渡辺京二『北一輝』 - heuristic ways

    渡辺京二氏が『北一輝』(ちくま文庫、2007年、原著1978年)という著書を書いていることを知り、ネットで取り寄せて読んでみた。これは北一輝の評伝であり、北の革命理論や戦術、その認識の修正や深化、北自身の変質や転落のプロセスを読み解いた試みである。「あとがき」によると、著者は、「北一輝問題」(1975年)という文章を書いた後、「北を十分論じ尽せなかった気がかり」があったが、今回の著書で「彼についてはすべてを論じ尽したという思い」に達したという。 私が少し驚いたのは、書の中で渡辺氏が、松健一氏や松清張氏の北一輝論を、「けちょんけちょんに」という感じで厳しく批判していることだった。松健一氏の思い込み*1や読み間違い*2に対する指摘はなるほどと首肯させられたが、松清張氏が北の「理論」を理解する能力をもたないという批判*3はどうだろうか。 基的に松清張氏は歴史家としての立場から北の歴

    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2011/08/28
    言ってましたね「北一輝はホームランと見まがう大ファウルをかっとばした男だと花田清輝氏は言っているらしい。」
  • フロイトのドストエフスキー論 - heuristic ways

    フロイトがドストエフスキー論を書いているのは知っていたが、今回初めて読んだ。図書館で中山元訳の『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』(光文社古典新訳文庫)を見かけたので、借りてみたのである。「ドストエフスキーと父親殺し」は一九二八年、フロイト(1856−1939)が七二歳のときに書かれている。年譜を見ると、一九二七年には『幻想の未来』、三〇年には『文化への不満』を刊行しており、後期フロイトが精神分析の理論を宗教や文明批判、政治理論などにも応用していた時期に当たることがわかる。  フロイトはドストエフスキーを「詩人」としてはきわめて高く評価しながらも*1、「道徳家」や「罪人」としては手厳しく批判し、結局のところ、「神経症患者」として精神分析の対象としている。 私が興味深いと思ったのは、ドストエフスキーの「道徳家という<顔>」を批判しているところで、フロイトは、「道徳性の高い人物というも

  • 市民権と武装権 - heuristic ways

    私が最初に読んだ小熊英二氏の著書は、『市民と武装――アメリカ合衆国における戦争と銃規制』(2004年)だった。これは、「市民と武装――アメリカ合衆国における「武装権」試論」と「普遍という名のナショナリズム――アメリカ合衆国の文化多元主義と国家統合」の二の論文を収めたもので、前者はもともと1994年に発表されている(後者は1992年に執筆したが、未発表だったとのこと)。 最初に読んだときは「アメリカの銃規制問題」の歴史的背景を考察したものというぐらいの印象しか持たなかったが、今回再読してみて、氏の問題意識はむしろ、市民権の問題を「武装権」の歴史から捉えるというところにあることがわかってきた。 一七世紀イギリスの思想家ハリントンによれば、土地が君主や貴族によって独占されていた時代は傭兵や貴族が軍の主力となるが、共和制では土地を所有して自立した市民は自らの財産を守るため武装しており、こうした人

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    ishikawa-kz 2011/07/19
    記事内で引用された小熊英二の言葉「国家権力の治安能力に身を委ねるしかないとき、“武器”を持たずしかも自立した市民とはいかに構想しうるのか。」
  • 冷戦/経済成長の終わり - heuristic ways

    以前私は、丸川哲史『冷戦文化論 忘れられた曖昧な戦争の現在性』(2005年)というを読んだとき、こういうことを書いた。 中国革命と朝鮮戦争のインパクト。丸川氏は、この「入り口、つまり冷戦構造へと巻き込まれていく、あるいはそれが打ち立てられていく歴史」をいわば無自覚にやり過ごしてしまったことが、日人にとって「冷戦の出口がはっきりしない」遠因なのではないかと言う。当は、日は冷戦の「傍観者」であるどころか、「じつにその共犯者であり、また主宰者でもある」のではないかと(サンフランシスコ講和条約の「「片面講和」という遂行的な効果が、東アジアの冷戦構造をむしろ創出した」のだから)。  小熊英二氏は、「極東国際軍事裁判(東京裁判)に戦勝国による裁判という側面があるのはたしかだが、日はサンフランシスコ講和条約で東京裁判を認めることと引き換えのかたちで独立を認められた」ことに、改めて注意を促してい

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    ishikawa-kz 2011/07/13
    「小熊氏は、「日本の「戦後」は、ほぼ冷戦期と重なっている」のであり、後世になってふりかえるとき、日本は「冷戦期に栄えた国」とか、「冷戦秩序の安定期に栄えた国」という位置づけが与えられるであろうと」
  • マルセル・モースに関するメモ - heuristic ways

    先日書店でモース研究会『マルセル・モースの世界』(平凡社新書、2011年)を買った。 マルセル・モース(1872−1950)については、エミール・デュルケムの甥であること*1、『贈与論』の著者であること*2ぐらいしか知らないが、最近では、柄谷行人氏や今村仁司氏(『交易する人間――贈与と交換の人間学』2000年)、デヴィッド・グレーバー氏などにもインスピレーションを与えているようなので、前から興味があった。 何よりこのモース研究会のメンバーの一人が、『闘うレヴィ=ストロース』(2009年)の著者・渡辺公三氏で、渡辺氏がこのの最初の3つの章(第一部・第1〜2章、第二部・第1章)を執筆している。とりあえず渡辺氏執筆の章は読んだので、メモをとっておきたい。  渡辺氏は、『闘うレヴィ=ストロース』で、若きレヴィ=ストロースの政治的背景について書いたように、書の第一部・第2章「モース人類学あるいは

  • なぜ核の惨禍を忘れたのか - heuristic ways

    今月9日に村上春樹氏がスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で行なったというスピーチの原稿を読んで、いろいろ考えさせられた。 「村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(上)」 「村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下)」  それは、日の有名な作家が国際的な舞台で、東日大震災と福島原発事故に関して、最低限言うべきことを言ったという点で、基的に賛同できる内容だった。また、村上氏が一人の倫理的・政治的主体として、「我々日人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった」という態度を明確に表明したという点で、大いに共感するところもあった。 ただし、地震や津波は日だけの現象ではないし、原発がある国(あるいは、原発事故が起きた国)も日に限らない。*1 その点で、村上氏のスピーチはやや文化的な「日人論」に引き寄せすぎている嫌いはあると思う。 また、「効率」や「便宜」のために

  • 技術と生活 - heuristic ways

    カール・ポランニーは、「時代遅れの市場志向」(初出1947年)という文章の中で、こういうことを言っている。 機械時代の最初の一世紀が恐怖とおののきのうちに幕を閉じようとしている。人間がみずからすすんで、熱狂的なまでに機械の要求に服従した結果、この時代の物質的成功はすばらしいものであった。結局、自由主義的資主義とは産業革命の挑戦に対する人間の最初の対応であったのである。われわれは、精巧で強力な機械を存分に使用するために、人間の経済を自己調整的な市場システムに変形し、その思想や価値をも、この新しく特異なシステムに適合するように鋳直したのであった。 今日、われわれは、このような思想と価値のいくつかについて、その真理性と妥当性を疑いはじめている。もはや、アメリカ合衆国以外については、自由主義的資主義がいまなお存在しているなどということはほとんど不可能に近い。われわれが今新しく直面している問題は

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    ishikawa-kz 2011/05/24
    K・ポランニーの論について「「機械の出現そのものではなく、精巧で、それゆえに特殊な機械・設備の発明」が、工場制度の発展を招き、やがてそれは、労働・土地・貨幣を擬制商品とするような市場メカニズムの拡大」
  • 核植民地化体制の「超自我」 - heuristic ways

    今朝(5月15日)の朝日新聞の1面に、「1号機冠水を断念 福島第一 建屋地階に水3000トン」という記事があり、「福島第一原発1号機の建屋内の状態」を表わす図が載っていた。*1 それを見ているうちに、この図は何かに似ている、どこかで見たことがあるような気がする、そう、これはフロイトの「超自我/自我/エス」のモデル図に似ている、ということに気がついた。 直観的なイメージでいえば、超自我の命令(注水)が自我(原子炉)を制御することができず、エスの領域(地階)に有毒なエネルギー(放射能汚染された水)が流れ込み、満ち溢れている…、という風にこの図を「読む」ことができるのではないか。そんなことをふと思った。 同じ1面に「日米 事故対応の舞台裏」として、こんな記事が載っている。 「いま、ヘリが放水しました」 3月17日午前10時22分、管直人首相は首相官邸から電話でオバマ大統領にこう切り出した。(中略

  • 北村透谷の「事業」 - heuristic ways

    北村透谷は「事業」という言葉をよく使っている。たとえば「楚囚之詩」(1889年)の「自序」では、こういう詩を作るのは「非常の改革、至大艱難(かんなん)の事業」だったと言っている。また、「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」(1893年)では、山路愛山の「文章即ち事業なり」という宣言を取り上げて、その「事業」とはどういう性格のものなのかを論じている。 注目したいのは、「当世文学の潮模様」(1890年)では、「文字の英雄は兵馬の英雄と異なる所なし」と書いているのに対し、「人生に相渉るとは何の謂ぞ」ではむしろ、「文士をして兵馬の英雄に異ならしむる所以(ゆえん)」を強調していること。これは一見矛盾するようだが、よく読むとそうではない。 「戦ふに剣を以てするあり、筆を以てするあり、戦ふ時は必ず敵を認めて戦ふなり、筆を以てすると剣を以てすると、戦ふに於ては相異なるところなし」(「人生に…」)

  • クレメンタインの記憶 - heuristic ways

  • ハワイ併合をめぐって - heuristic ways

    以前、矢口祐人(やぐちゆうじん)氏の『ハワイの歴史文化』(中公新書、2002年)を読んだとき、「移民とその子供たち」(2007-09-13)というエントリを書いたのだが、そのときはハワイ併合の問題をほとんど考えていなかった。 だが、改めてページをめくってみると、第4章「これからのハワイ」の「2 ハワイ小史」の中に、「ハワイ併合論」という節がある。これがなかなか面白い。 その前史をまず簡単にたどっておくと、ハワイ王朝は一七九五年カメハメハ一世によって建国され、一八一〇年にハワイ諸島統一を成し遂げたのだが、この統一王朝は一八九三年に白人たちのクーデターによって倒される。「クーデターで樹立された暫定政府は、翌年、正式にハワイ共和国となった」が、この「共和国は大統領の選出すら選挙で行わない非民主的な国家だった」。ハワイ王朝滅亡直後から、アメリカ合衆国ではハワイ併合論の声が上がっていたが、「当時の

  • 読み書きと革命 - heuristic ways

    佐々木中『切りとれ、あの祈る手を――<>と<革命>をめぐる五つの夜話』を読んで、いろいろ考えていたら、だんだん疑問や混乱が膨れ上がってきて、収拾がつかなくなってきた。私はこのを「読んでしまった」がために、どうにも「読めないでいる」という苦境に陥ってしまったようなのである。 佐々木氏はこので、われわれの虚を突くような、驚くべき歴史的展望を提示している。を読むこと、書くこと、それが革命だったのだと。 たとえばルターの革命(ふつうそれは宗教改革と呼ばれているが、大文字のReformation、つまり「大革命」と呼ぶ慣わしもあるという)とは、一言でいえば「聖書を読む運動」だった。《ルターは何をしたか。聖書を読んだ。彼は聖書を読み、聖書を翻訳し、そして数限りないを書いた。かくして革命は起きた。を読むこと、それが革命だったのです。》 「欧米の革命」に限って言えば、「ひとは少なくとも六つの革

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    ishikawa-kz 2010/12/02
    「トッド氏の指摘で興味深いのは、「教育は無数の帰結をもたらすが、その一つが、住民が精神的に生まれ育った土地から離脱するということに他ならない」と言っていること」
  • 文字と歴史 - heuristic ways

    佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』が面白いのは、人類の歴史をきわめて長い時間の尺度で考えていて、たとえば「文字が生まれてからまだ五〇〇〇年しか経っていない」というように、五〇〇〇年の歴史すら相対化する視点を持っているというところである。 最近の研究によると、われわれの直接の祖先たるホモ・サピエンスは二〇万年前にアフリカで生まれたということになっています。ネアンデルタール人はどうも別種で、亜種ですらない。実は常識に反して、ネアンデルタール人よりホモ・サピエンスの方が先に生まれているんですね。その前にホモ・ハビリスが二三〇年前に登場して、それが進化して一〇〇万年前にホモ・エレクトゥスになって絶滅します。これもやはりわれわれの祖先ではなく、別種なんだそうです。つまり、縄文人やクロマニョン人のようなホモ・サピエンスこそがわれわれの直接の祖先です。 われわれは生まれてから二〇万年も経つのですよ。文字

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    ishikawa-kz 2010/12/02
    簡単に絶望してしまわないためにものごとを長い目で見るのは大事だ。
  • 読み替える - heuristic ways

    昨日のエントリを書きながら漠然と感じていたのだが、渋谷望氏のいうミドルクラスの特徴は、日の「近代化」のストーリーにほとんどそのまま当てはまるように思える。たとえば脱亜論とは、以下のようなものではなかったか。 日の近代化とは、欧米列強の圧力、つまりアジア諸国から独立を奪い、アジア諸国を植民地にする(隷属化する)という圧力から、「主権国家として」抜け出すために日々努力をすることだった――たとえば学校と軍隊と工場を作り、徴兵制を敷き、不平等条約解消のために富国強兵の政策をとり、戦争の準備をする、などなど。近代国家を目指すということは、欧米列強がアジア諸国に加える「植民地化」の圧力に、他の諸国家と連帯してあらがうのではなく、一国家の力であらがい続けることだ。重要なのは、「集団的防衛によって」ではなく「主権国家の力で」という点である。近代日は「孤独な主権国家」である。  日の「自己分裂」は、