ソシオロジの最新号を読む。全部ちゃんと読んだわけではないが、印象を言えば、「物語、物語、モーウンザリ」である。6本の論文のうち半分が当事者の「語り」を使った研究なのである。 個人が語る物語がなぜ社会学にとってそんなに重要なのか、私には理解できない。確かに客観主義的な研究ばかりがなされて、当事者によって「生きられた」経験が無視されているような状況では、「語り」の重要性を強調するのもわかる。Peter Bergerらや井上俊がそういったアプローチの可能性を追求したことの価値はあったといえる。 しかし、今や猫も杓子も「語り、語り、物語」である。客観的現実についてかたろうとする社会学者のほうが少数派なのではないかと思えるほどである。もうそろそろ次の段階に移行すべきときではないのか。 当事者の「語り」の研究には、固有の問題がある。 門野里栄子, 2005, 「〈親の背中〉が語る時 沖縄反戦地主二世に