【特命助手サイトーの前説】 これからしばらくの間、「子ども」をテーマにした話をお届けしていこうと思います。子どもの話というと、身近にいる子どもをサンプルにして、一般論を展開しがちです。実際、僕が尋ねても「(子どもたちが)おかしくなっている」と答える人もいれば、「昔と大して変わってない」と言う人もいます。 こうした床屋談義は、それはそれで面白いのですが、もう少し客観的なデータで見ると、どうなのか。教育改革論が下敷きにしている「青少年の規範が低下している」「少年犯罪が凶悪化している」といった現状認識は正しいのか。広田先生は、早くからこうした言説に疑いの目を向け、安易な<青少年の凶悪化>論に警鐘を鳴らし続けてきました。 誤った現状認識のもとでは、ソリューションもまた誤ってしまいます。果たして子どもは本当に変わったのか? 実は子どもを見る大人の視線が変わっただけではないのか。今回も、皆様からのさま
「ニート」って言うな! 今、この本を読んでいる。まだ途中なのであれこれと批評できるような状況ではないのでこの本については特にコメントしない。 この本を読みながら考えたのは、「ゆとり教育世代」「学力低下」にも「ニート」と同じような面があるのではないかということ。殊更に「学力低下」を取り上げることで「ゆとり教育世代」という言葉で括られる人たちを非常にネガティブなイメージで捉えてしまう。そして、嘲笑の的にもなる。成人でも書けないような漢字が書けないからと言って大々的に報じる。そのような風潮には危惧をしている。 「低学力問題」は教育社会学などの分野では「社会的排除」や「マイノリティ」の問題と関連した所で議論されてきた。しかし、ここ最近の学力低下論争の高まりと共にいつのまにかこれまでの低学力についての議論は低調になり、そのような問題に目が向けられ難くなってきた。 現在の学力低下論争は言ってみれば強者
今進められている教育改革は,矛盾しているし,ねじれている。元を辿れば,いわゆる「ゆとり教育路線」も矛盾しねじれていた。 「ゆとり教育路線」は今では,日教組やその背景にあるイデオロギーが作り出したなんていう馬鹿げた「常識」がまかり通っているけど,http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070704/129082/で広田照幸氏が 80年代に盛り上がった、市民運動的な学校批判(制服批判とか校則批判など)と、ネオリベラル的な立場からの「画一教育批判」(たとえば臨時教育審議会(1984〜87)で出された個性重視論、など)とは、ある意味で、コインの裏表のような関係でした。 と指摘しているように,「ゆとり教育路線」も左か右かという立場に関係なく主張されたし,推進されてきた。そうしたなかで,矛盾したりねじれてきた。 でも,そういった矛盾やねじれは,景気が
【特命助手サイトーの前説】 前回の記事には予想以上の反響をいただきありがとうございました。広田先生ともどもビックリしています。先生は、これまでネットでの発言は控えていたので、読者の皆様からの反応の速さにも驚かれたようです。 頂戴したコメントは、もちろんすべて拝読しております。現役の先生方の声がとても多かったのが印象的でした。また、反対意見や疑問を戴いたコメントもとても勉強になります。印刷したコメントに蛍光ペンを引きながら、「ここはもっと掘り下げて説明したほうがいいな」「この反論は面白い。広田先生はどう考えるかな」などと助手は考えております。統計資料では得られない「生の声」に触れられたことは、大きな収穫でした。 一つひとつのコメントにお答えすることはできませんが、皆様からいただいたテーマ、論点、疑問点は、連載を通じて、さらに考えを深めていく所存です。 1点だけ事実関係の補足をしておきます。「
目次 ●毎日新聞の記事 ●まんが「子供いじめ」 ●よくある質問 ●文藝家協会提言案 日本共産党中央委員会よりの回答とそれへの反論 子ども表記問題とは? (初めての方はここを) 「子ども教の信者は目を覚ましましょう」矢玉四郎 出典 季刊ぱろる9子どもって何だ?(パロル舎)1999 「子ども表記について新事実発見」矢玉四郎 出典 季刊ぱろる10横断する絵本 1999 ●参考リンク ★最近の心境 前世紀(1999年)に「子ども」表記に疑問をもって、調べて書いてきました。はじめは世の中のひとも「あ、そうか」と、すぐ訂正されるものと思っていましたが、とんでもない抵抗があり、本業にも差し支えるような逆境におちいってしまいました。 表記の問題などどうでもいいという見解もできるわけで、もっと大きな問題にくらべるとそうです。が、大きな問題こそ、言葉をつくして論理的に考えていかなければ
ミスター文部省、寺脇研氏降格 「ゆとり教育」の推進者である寺脇研氏が降格された。 ** ゆとり教育の旗振り役として“ミスター文部省”と呼ばれた寺脇研さん(53)が四月の人事で、文化庁の文化部長から「文部科学省大臣官房広報調整官」という新設ポストに異動した。新たな役職は課長級。部長職からの降格に「僕は『負け組』役人」と宣言する。“霞が関”の常識を破る格下げ人事を、エリート官僚はなぜ受け入れたのか。 早期退職の勧奨があったのは昨秋のこと。「同期同列」を不文律とする中央省庁のキャリア組と呼ばれる官僚たちは、最後まで次官レースに残る一握りをのぞいて、五十代半ばまでに省庁を去る。文科省の外局である文化庁に転出したときから、「この日が来るのは覚悟していました」と寺脇さんは言う。東京新聞 4/10 ** 寺脇さんのロジックは何で壊されたかというと、苅谷剛彦氏にはじまる『学力低下論争』と呼ばれる論争だ。
以前、「『新しい歴史教科書を作る会』会長&名誉会長コンビが出した『ジェンダーフリー・バッシング本』の面白さ」というエントリーを書きましたが、それを遥かに超えるスバラシイ本を先日読みました。それは、chiki が勝手にプロフェッサーNと呼んでいる中川八洋さんと、保守主義者の重鎮であり自己啓発本もたくさん出している渡部昇一さんの共著、『教育を救う保守の哲学―教育思想(イデオロギー)の禍毒から日本を守れ』です。 同書は、サブタイトルに「教育思想の渦毒から日本を守れ」とあるように、現代日本の教育全般の荒廃を嘆いて処方箋を提示するという内容の本です。渦毒ですよ、渦毒。以下、例によってネタとベタの違いが分かる人だけお読みください(無駄に長いです)。 本書はまず「まえがき」において、中川さんが「国家」の役割について次の説明するところから始まります。 国家とは何か。祖先の栄光も艱難も成功も失敗もすべてを『
自戒も込めて書いておきたいことがある。 昨年、教育基本法改正に関していくつかエントリーを立てた。そのなかで何度か「教育の崩壊というような言葉で表現されるような危機感や不安感は教育基本法改正賛成派、反対派のどちらにも共有されている」というようなことを書いた。 ISBN:4334033814:detail で芹沢一也氏や浜井浩一氏が治安の実態について明らかにし、「犯罪不安社会」への警鐘を鳴らしている。教育も同じような状況がある。 「教育不安社会」のなかで、ほとんど実証するというプロセスを経ないまま量産される教育言説。それを有効利用して自分たちのやりたいことを着々と実現させつつある人たち。冒頭に書いたように、教育への不安が様々な立場を超えて「共有」されているなかで、教育基本法改正の議論によく現れているが、現実と乖離しがちなスローガンを連呼するだけでは、その主張が受け入れられることはない。 森重雄
先日のエントリのコメント欄で成城トランスカレッジ!のchikiさんにこんなのもあるよ、とオススメされたのだけれどとても手に負えそうにないので、その代わりにchikiさんとこの同じ日のエントリで紹介されていた「「立ち上がれ!日本」ネットワーク:高橋史朗明星大学教授・講演要旨」にちょっとだけツッコミ。年の瀬に非生産的なエントリが続きますがご容赦を(これまでに生産的なエントリなんてあったのか?という質問は無しでプリーズ)。 最近の子供による凶悪事件の問題は「心の闇」ではなく、それは「脳の問題」である。子供の脳に異変「脳内汚染」が生じているという現実を熟知する必要がある。 自分をコントロール出来ない。その結果、自立できないニートがこの国には増えている。その原因は家庭教育に問題があり、そこに焦点があたっていないことが、この国の問題であると思っている。 なぜ、自立出来ない若者が増えているかの責任は、若
「教育再生 民間タウンミーティングin宇都宮」の内容紹介(その1) 宇都宮で開かれたという教育再生機構のタウンミーティング。ここで語られたことについて少しだけ書いておきたい。 まず、八木秀次氏は主催者代表あいさつの中で この種の会合が、かつてイギリスでも開催されたことがありました。1960年代末から70年代にかけて教育に関する集会がイギリス全土で開かれ、教職員、保護者、政治家、宗教家などが一堂に介するなか、今、イギリスの教育を立て直さなければ、イギリスはこのまま衰退するとの強い危機感のもと、いわゆる「英国病」に対抗するために様々な具体的な代案が提起されました。また、教育の危機的な現状を告発する運動も展開され(「教育黒書運動」)、こうした親や地域団体が多数集まって民間から声を上げた運動の結果、サッチャー政権が誕生し、イギリスの教育改革は開始されたのです。 と述べている。八木氏の言う「教育黒書
「学力問題・ゆとり教育」に関する膨大な議論を、研究者のみならずジャーナリズムにおける言説も交えて収録。「学力論争とは何か」「ゆとり教育とは何か」を多様なレベルから検証し、その議論の展開と教育改革の行方を示す! →詳しくはこちら 「格差」や「二極化」が叫ばれる現代日本の状況を踏まえ、それを生み出すメカニズムとしての「学歴」の効用や、その取得をめぐる「受験競争」の実態を明らかにする90年代以降の諸論考を精選。教育と社会的地位との関連をめぐる混迷や閉塞を解き、明らかにする、新たな挑戦! →詳しくはこちら ハウツー本などの技術的アプローチ、特定のイデオロギーや規範からの現状批判に終始しがちな「子育て・しつけ」というテーマに対して、現状を的確に捉えた諸論考を精選。「家族そのものの変化」など、そこに内在する問題、さらに教師・親・行政といった「担い手」の役割を問い直す! →詳しくはこちら 教基法「
切手というモノを、ちょっと違った角度から眺めてみると、あなたの知的好奇心をくすぐる新たな発見がイロイロあるのです。そんな切手の面白さを綴っていこうと思っています。 今日は10月30日。1945年の終戦までは『教育ニ關スル勅語(教育勅語)』が発布された日として、全国の学校で勅語の奉読が行われていた日です。というわけで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1940年10月25日に発行された「教育勅語煥発50年」の記念切手の1枚で、『教育勅語』の中心的な徳目である「忠孝」の文字が大きく取り上げられています。ちなみに、勅語には「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ」というフレーズがあります。 文字を図案の中心に据えるのならば、勅語の文章やフレーズをそのまま、切手上に取り上げてもよさそうなものなのですが、そのようになっていないのは、やはり、昭和10年代のヒステリックな時代思
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く