入札不調で2年延期――バスケ新B1基準へ 西原商会アリーナ来夏着工 座席増設、大型ビジョン設置 鹿児島市

印刷 和歌山県文化遺産課によると、同県那智勝浦町の那智大滝下流にある「文覚(もんがく)の滝」(落差8メートル)に巨岩が崩落し、消失した。大雨の影響とみられている。同町では、熊野那智大社の裏山が崩れて本殿などの一部が土砂で埋まったことも同大社側が確認している。 同県田辺市の世界遺産・熊野本宮大社では、かつて本殿があった大斎原(おおゆのはら)が冠水し、結婚式場などが天井まで水に漬かった。熊野古道の参詣(さんけい)道も寸断され、同大社への中辺路(なかへち)が通行できなくなった。同県新宮市にある国の史跡・新宮城跡でも土砂崩れが起きたほか、近くの国の天然記念物に指定されている植物群落「浮島の森」が水没した。 また、奈良県文化財保存課によると、同県桜井市の国の重要文化財・長谷寺の下登廊(しものぼりろう)の屋根瓦8枚が破損した。 関連リンク熊野那智大社、本殿の一部が土砂で埋まる(9/5)和歌山県の
印刷 台風の影響で裏山が崩れ、本殿に土砂が流れ込んだ熊野那智大社=5日午前7時ごろ、和歌山県警提供 和歌山県那智勝浦町の世界遺産・熊野那智大社の朝日芳英宮司(78)によると、神社の裏山が崩れ本殿の一部が土砂で埋まっているという。5日朝、現地で確認したという朝日宮司は「土砂が垣根を越えて、本殿が高さ2メートルほどまで埋まっていた。50年神社にいるが、これほどの被害はない。世界遺産の危機だ」と話した。 和歌山県立博物館の大河内智之学芸員によると、那智大滝も水量が大幅に増え、滝の前にある大社の施設の一部が流失、半壊した。文化財などの収蔵庫は無事だった。 熊野古道の参詣(さんけい)道も寸断された。田辺市の熊野本宮大社に向かう中辺路(なかへち)は数カ所で土砂崩れが起き、通行できなくなっている。 関連リンク台風12号、捜索活動本格化 死者24人不明者52人(9/5)世界遺産・二条城、塀の一部はが
合格祈願で有名な「落ちそうで落ちない巨石」のある宮城県石巻市の釣石神社でご神体の巨石が崩落を免れ、4人の命を救っていたことが5日、分かった。津波来襲直前に巨石下の石段を住民ら4人が駆け上がり、津波から間一髪で逃れていた。神社のある追波地区は、北上川河口に位置し、大勢の小学生が犠牲となった大川地区の対岸にある。住民278人中60人が津波の犠牲となった。 大津波は不気味な地鳴りを上げて堤防を乗り越えてきた。「ダンプカーが20台ぐらい一気に来たような音だった」。神社から50メートル離れた家に住む鈴木栄幸さん(68)は、地震直後に建物から飛び出し不自由な足を引きずって神社へ急いだ。 鳥居をくぐり3分の1ほど登ると、濁流は足元まで迫った。「振り向くと自分の家が流されていた。2度目の津波で集落は完全にのまれてしまった」。断崖からせり出した巨石の下を参拝客ら4人とともに駆け上がり九死に一生を得た。 神社
神武天皇の陵を訪ねての初夏の或一日。開けたのか開けぬのかまるで解らない梅雨の 合間。蝉が鳴き出して、日の照りつける暑い一日だった。郷土の大先輩の墓参りである。 橿原神宮は、東征を終え大和を平定した神武天皇が即位した場所とされるが、皇居が現在の橿原神宮と同じ所かどうかは定 かでない。「古事記」は「畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)にましまして、天(あめ)の下治(したし)らし めしき」と伝えるだけで、後は何も記録していない。現在の橿原神宮は明治23年の創建で、白檮原宮はおそらくこの周辺 にあったのだろうとされる。 「日本書紀」の記述はもっと詳しく、即位の年月日や、東征に手柄を立てた家臣達の論功行賞にも言及している。それによ れば、己未(つちのとひつじ)年(紀元前 662)3月、畝傍山の東南の橿原の地に皇居を建設し始め、2年後の辛酉(かの とのとり)年(紀元前 660)の春、正月(むつき
三重県の多度大社(同県桑名市)と猪名部(いなべ)神社(同県東員町)でそれぞれ行われている県無形民俗文化財の上げ馬神事が、動物虐待との批判を受けていた問題で、同県文化財保護審議会は13日、馬の扱いや騎手の練習方法などを改善させるよう県教育委員会に求める文書を渡した。 審議会は、馬の走路がぬかるまないようにしたり、坂の角度を緩やかにしたりして開催場所の改善を図ることや、馬を興奮させるために砂を投げたり、骨折した馬に十分な対応をしなかったりといった虐待と受け取られかねない行為をさせないよう求めた。また、土壁を乗り越えられる馬を用意することが虐待を防ぐ一つの手段になるとして、馬の調達の工夫も求めた。 審議会は、動物虐待との批判を受けて昨年2月に調査部会を立ち上げ、現地で練習や神事を調査してきた。会長の菅原洋一・三重大教授は「問題は改善しうると判断した」と述べ、文化財指定の取り消しはしないと表明
横浜スタジアムのある横浜公園一帯は、江戸時代埋め立てられた土地だ。中華街も全部、そうである。 交通の要衝である神奈川宿から遠いこの田舎・横浜に“出島”を造り、ペリー以下やってきた外国人の居留地や外国企業を押し込め、その際この横浜スタジアムの辺りには、壮麗な3階建ての《岩亀楼》をはじめとした外国人も遊べる娼館街をつくった。 大店(おおだな)・岩亀楼が出来たのは、万延元年のこと。もちろんこれらは徳川幕府の政策である。 それから6年ほど後、岩亀楼は、豚屋火事という大火で焼けた。今でも、お盆に横浜スタジアムで写真を撮ると、遊女が写っているらしい。400人以上亡くなったのだから無理もない。 岩亀楼は、すぐに高島町に移転し、昭和に入るまで豪華な娼館の営業は続いた。今でも当時の地名が残る<紅葉坂>から、岩亀横丁に入ると、有名な《岩亀稲荷》がある。 尊皇攘夷の考えから外国人客を拒み、最後は喉に刀剣を突きた
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