3月11日に東日本を大地震、大津波、原発事故の複合災害が襲った。原発事故は現在進行中であり、一日も早い収束を世界の人々が固唾をのんで見守っている。 原子力は太陽光や風力、バイオマスなどの次世代エネルギーが大規模普及するまでの「つなぎ」である。おそらく今世紀の半ばごろまでは原子力が必要だろう。だからこそ、遠からず事故のすべてが明らかにされなければならない。インターネット時代、あらゆることはあらわになる、と人々は知っているのである。 しかし危機に怖気(おじけ)付いて思考停止している暇はない。ピンチから新しい時代を生み出すことを考えなければならない。私の提案は、震災地域に「プラチナ社会」を実現しようというものである。 20世紀において、先進国の多くは衣食住という人間の基本的欲求に関して量的充足を得た。例えば日本では、家の戸数が世帯数を上回り、衣や食も、ぜいたくさえ言わなければ不足はない。これは先
早朝5時代のNHKラジオを聴いていると、佐渡の朱鷺の話題が話されていた。朱鷺の保護に詳しい現地の方が「朱鷺が亡くなる」という表現で朱鷺の死話題とされていました。 ラジオを聴きながら、ペットの死を「亡くなる」と表現する人が増えたと思ったら、鳥の死までが「亡くなる」と表現されるようになったかと思ったことです。よっぽど現代の日本人は“死”という言葉が嫌いなようです。 「日本語練習帳」(大野晋著・岩波新書)によると、「亡くなる」「お召しになる」「ご覧になる」などの「なる」という言葉が尊敬語です。「なる」は、「寒くなる」「木の実がなる」などと使うように、自然的成立を意味する言葉であり、古代の人は「自然のこと→遠いことと扱う→自分は立ち入らない→手を加えていない」とするのが、最高の敬意を表明した言葉となったとあります。だから肉親の死に対しては「亡くなる」という表現は用いないという常識が私の中にあります
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