タグ

*philosophyに関するklovのブックマーク (100)

  • 【インフォシーク】Infoseek : 楽天が運営するポータルサイト

    日頃より楽天のサービスをご利用いただきましてありがとうございます。 サービスをご利用いただいておりますところ大変申し訳ございませんが、現在、緊急メンテナンスを行わせていただいております。 お客様には、緊急のメンテナンスにより、ご迷惑をおかけしており、誠に申し訳ございません。 メンテナンスが終了次第、サービスを復旧いたしますので、 今しばらくお待ちいただけますよう、お願い申し上げます。

  • アドルノって誰なの? - sekibang 1.0

    Q.アドルノって誰なんですか? A.テオドール・ルートヴィヒ・ヴィーゼングルント・アドルノさんです。1903年にユダヤ系の裕福な家庭に生まれ、すくすく育ち、1969年に亡くなった20世紀の思想家/社会学者/音楽家/批評家/教師です。思想家としてはヘーゲルの弁証法を批判的に継承しており、社会学者としては特にメジャーな著作はありませんが社会心理学的な研究をしつつ、音楽家としてはアルバン・ベルクに師事、批評家としては「ベンヤミンのほうが優れてるよ!」とか言われつつも、大学の先生としてフランクフルト大学で教鞭をとりました。1969年4月に、左翼の女子学生がアドルノの講義中におっぱい丸出しで乗り込んでくるという事件があってから教師としては休業をせざるを得なくなったのですが、その年の8月に心臓発作で亡くなりました。 Q.アドルノって偉いの?あんまり名前を聞かないけど…… A.はい。結構偉いです。第二次

    アドルノって誰なの? - sekibang 1.0
  • 市野川容孝「飢餓という殺害」 - sugitasyunsukeの日記

    メモ。 市野川容孝がフーコーの「生権力」(生きさせるか、死の中に廃棄するという権力)を「餓死するにまかせる権力」として再解釈している(「生‐権力再論――飢餓という殺害」『現代思想』2007年9月号)。 市野川は、餓死というとき、糧不足や栄養失調のみならず、HIV/エイズの薬剤や人工呼吸器がないこと、それらを与えられないまま放置されて死んでいくことをふくめている。作為的に殺すのではなく不作為のまま死ぬにまかせておく権力。 ナチズムの安楽死もまた(ある部分では)、作為的に殺しただけではなく、不作為(放っておくこと)によって例えば精神病院内の精神病者を殺害した。もともと第一次大戦中には、ドイツ国内の精神病院では、約七万人の精神病者が飢えと栄養失調で死亡している。この数は、ナチの安楽死計画によって一九四一年以降に殺害された精神病者の数とほぼ等しいという。ここから目を転じて、市野川は、現在の日

    市野川容孝「飢餓という殺害」 - sugitasyunsukeの日記
  • ジョン・ロールズのルール=実践観 - HODGE'S PARROT

    隆史 著『ロールズ 正義の原理』を読んでいる。興味を惹いたところがあったのでメモしておきたい。 ロールズが《ルール》という用語を明確化した論文「二つのルール概念」について。この論文で彼は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」にヒントを得、「ある実践(プラクティス)を正当化することと当該の実践に含まれる個々の行為を正当化すること、その両者の区別の重要性を指摘する」ことを目指したのだという。 彼は行為功利主義者が陥りがちなルール観を「ルール=要約観」と名づける。これは、ルールなるものを<個々のケースに功利主義を直接適用した結果得られた過去の諸決定の要約>と考える見解であって、ケースごとの意思決定がルールより論理的にも先行する。たとえば「約束を守るべきである」とのルールをこの「要約観」で説明しようとするなら、これまで各種の約束を履行した場合にすべて有利な帰結がもたらされたので、約束の遵守がル

    ジョン・ロールズのルール=実践観 - HODGE'S PARROT
  • 認知科学とか自由について雑感 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    <対談>東浩紀×下條信輔 将来は人間の潜在認知さえもコントロール可能になる http://blog.moura.jp/geetstate/2007/07/post_67af.html 物の認知科学者と言える下條信輔による認知神経科学の見事な解説…の部分は当たり前なので置いておくとして、ここで言及するのは別の部分。人間の自由と意識の関係について語っている文脈から引用。 たとえば、マクドナルドではハンバーガーを買う人はコントロールされていた。それはわかった。でも、意識のレベルでは、コントロールされているからなんだとか、コントロールされているからあえてコントロールされてみようとか、コントロールされていることに抵抗しようとしているほうが実はコントロールされているんじゃないのかとか、その現実に対していくらでも解釈は可能なわけです。そして、そんな解釈を並べているあいだにも、着々とひとはマクドナルド

    認知科学とか自由について雑感 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • シミュレーション・アーギュメントを論駁する [ JRF の私見:宗教と動機付け ]

    稿ではシミュレーション・アーギュメントとその変種について論駁します。シミュレーション・アーギュメントは最近《忘却からの帰還:シミュレーション・アーギュメントとオメガポイントについて》で初めて知り、そこで紹介されていた『ゼロからの論証』(三浦 俊彦, 青土社, 2006年)を購入し、一通り読みました。 ...

  • なぜネオリベラリズムを批判することは難しいのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    近代というデジタル化 最近のネオリベラルや、動物化をめぐる議論は、アナログとデジタルの関係で語るとわかりやすいのではないだろうか。 アナログとはこの世界の連続性であり、決して反復されることがない。たとえば放り上げたボールの軌道を古典力学で計算できても、現象は空気や熱などの環境に左右され、あくまで近似的なものでしかない。では、そのような環境も含めて計算すればと思うが、原子単位のふるまいを観測することなど不可能である。物理学はどこまでも近似でしかない。このよな意味で、この世界(アナログ世界)は連続であり、決して反復されされないし、再現されることはない。 人はこのようなアナログ世界を単位で切り取り、その関係性を見いだし、近似的に記述してきた。それがデジタル化である。たとえば大量のリンゴがあり、品質管理するために大きさで分類するとする。長さが2cm単位で分けると、10cmも12cmも、10〜12c

    なぜネオリベラリズムを批判することは難しいのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • ポパーについて妙にまともなことを言ってるUncommon Descent

    Tweets by @kumicit ■東芝がウェスチングハウスをコントロールできないことが勝利の決め手だった?(04/09) ■人生に意味を与えるUFO(03/14) ■UFO統計(03/14) ■2011年9月20日(01/30) ■180年くらい歴史がありそうな都市伝説「ブアメードの血」(08/06) ■143年の歴史を誇る都市伝説「ブアメードの血」Update 2016/08/05(08/05) ■メモ「人種偏見と発砲判断」(07/24) ■ハーブレメディは見過ごされている世界的健康被害(05/30) ■メモ「メスメリズムで死人が蘇生すると書いてたHahnemann」(05/08) ■メモ「ホメオパシーとデュナミスの関連調査中...」(05/05) ■メモ「危機的状況化での非難の政治力学」(04/24) ■メモ「災害後の人々の行動」(04/21) ■東芝がウェスチングハウスをコント

    ポパーについて妙にまともなことを言ってるUncommon Descent
  • はてな

    自動的に移動しない場合はをクリックしてください。

  • ヒュームの私的因果の不可能性

    まず用語を整理しましょう。 「私的因果」というのは、クリプキの用語です。ここではいったんヒュームと分けて考えます。 「因果」というのは、原因と結果、つまりヒュームがもんだいにしたのは、結果から原因が導かれるという考え方そのものです。 わたしたちは日常的にこの因果関係に従って考えています。 「グラスを落とすと割れる」、ということを考えてみましょう。 わたしたちはふつう、このことを「あたりまえ」と思っています。 この「あたりまえ」を、ヒュームはもう一歩踏み込んで考えた。 「グラスを落とす」というできごとにつづいて、「グラスが割れる」というできごとが生じる。これが何度も何度も繰り返すにつれて、「グラスを落とす」というできごとが生じるときはいつも「グラスが割れる」のできごとも生じると期待するようになる。 原因と結果という概念はこのようにして形成される。 このことは「習慣」という、人間の性に深く根

    ヒュームの私的因果の不可能性
  • 自由と管理―パノプティコンと現代社会 - on the ground

    この記事は、「リバタリアンが導出する「大きな政府」」の着想と文章の一部を生かして執筆したものです。 パノプティコンと規律訓練権力 ミシェル・フーコーは、強制する権力、抑圧する権力、という従来の権力観を覆す新しい権力観を、ジェレミー・ベンサムが考案した監視塔=「パノプティコン」の例で示したことで有名である。 パノプティコンでは、囚人達はそれぞれ独房に入れられる。独房は円形に配置され、それぞれの入り口は円の中心に向けられている。円形の牢獄の中央部には監視塔がそびえ立っており、そこから各独房の内部が見えるようになっている。これに対して、囚人の側からは監視塔の内部をうかがい知る事ができない。それゆえ、実際に監視されているのか否かにかかわらず、囚人は常に監視されている意識を持たざるを得ない。囚人は監視の目を内面化して行動するようになり、自ら行動を律するような「主体」化を迫られる。ここでは、権力行使の

    自由と管理―パノプティコンと現代社会 - on the ground
  • 萱野稔人氏×北田暁大氏トークセッション「権力と正義」 参加 - Kawakita on the Web

    ジュンク堂の池袋店だけでなく新宿店でもトークセッションが開催されるようになったようで、日開催された萱野稔人氏×北田暁大氏トークセッション「権力と正義」(萱野稔人氏『権力の読みかた―状況と理論』出版記念)に行ってきました。 ※要注:以下のものは、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。 両者の国家論のスタンスについて 北田氏は『責任と正義』で「正義・公正(Justice)」の観点から国家の問題を論じた。 萱野氏は『国家とはなにか』で「暴力」の観点から国家論を展開。 簡単に国家はこうであるべきという「べき論」に行くのではなく、国家の機能分析の議論を展開している。 紀伊国屋書店 ブックレビュー [社会・思想]『国家とはなにか』萱野稔人 「ありそうでなかった独自の国家論」北田暁大 http://www.kinokuniya.co.j

  • 「傘がない」なら - Living, Loving, Thinking, Again

    井上陽水が「傘がない」を歌ったときには、それを当時の若者のメンタリティと結びつけて云々する評論がけっこうあったらしいが、それとは関係なく、 傘という文化、ソフトの存在を前提として、「傘がない」問題を傘というハードで解決する、つまり「無」を「有」に変えることで成果と考えるのが「文明の利器」をつくる「技術革新」の考え方。ある問題への答えで競われる。 これに対して傘の有も無も分別しない、価値判断がない段階を、「傘というものがあったら良いじゃないか」と唱えて欲望を意識化する、それが「文化財」をつくる「文化開発」であり、問題を設定する行為それ自体は「空」を「無」に変えるものである。 http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070713/1184306869 を引用する。 詳しくは『野生の思考』を再読してみなければいけないのだろうけど、野生の思考 作者: クロード・レヴィ=ストロ

    「傘がない」なら - Living, Loving, Thinking, Again
  • 『存在と時間』を読む

    あまりにも難解だと云われる『存在と時間』。 地道に少しずつ読んでいく作業。 理解できるかどうかは別のこと。とにかく読む。 毎週日曜日深夜更新。 ■『存在と時間』を読むためのノート■ 〜言わずと知れたハイデガー未完の名著『存在と時間』を読む。毎週日曜深夜更新。〜 ●「前文を読む」という前文………………04/11/28 序論 存在の意味への問いの開陳 第一章 存在問題の必然性、構造、および優位 ●第一節 存在の問いを表立って繰り返すことの必然性………………04/12/05 ●第二節 存在への問いの形式的構造………………04/12/12 ●第三節 存在問題の存在論的優位………………04/12/19 ●第四節 存在問題の存在的優位………………04/12/26 第二章 存在問題を仕上げるときの二重の課題 根的探求の方法とその構図 ●第五節 存在一般の意味を学的に解釈するための地平から 邪魔者を取り

  • AはAである - 犯罪被害者の法哲学

    犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。 論理実証主義は、経験論にもとづいて形而上学を否定し、実験や言語分析によって厳正さを求める手法である。そこでは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は聖書のような扱いを受けていた。法実証主義は、この手法をそのまま条文解釈に取り入れようとする。科学的三段論法においては、「AならばBである。BならばCである。よって、AならばCである」という推論がなされる。法的三段論法においては、「AならばBであるべきである。BならばCであるべきである。よって、AならばCであるべきである」という推論がなされる。 ウィトゲンシュタインが語り得ぬものとして挙げた種類のものとして、倫理や宗教、芸術に関する命題があるが、これらはわかりやすい。一見して超越論的な事項だからである。これに対して、論理に関

    AはAである - 犯罪被害者の法哲学
  • 初心者のための記号論:目次

    <訳者より> テキストは英国のウエールズ大学のダニエル・チャンドラー博士による記号論への入門書のオンライン版であり、インターネット上で公開されているものです。このオンライン・テキストは評判が良く、1995年公開以来のアクセス回数は56万回(2004年2月時点)にもなっています。 訳者は2002年4月まで35年間、企業の研究所に勤務していたシステム分析が専門の技術者ですが、記号論のの中に、「システム」という言葉がたびたび出てくることから記号論に興味を覚え、インターネット上で調べていたところテキストと出会いました。記号論の主要トピックスをソシュールの記号学および構造主義をベースに、丁寧に説明しており具体的な例も多く観念的でないことから、記号論を勉強してみたいと思っている人、記号論の勉強を始めたがよく分からず挫折した人にとって良い参考書になるのではないかと感じました(残念ながら、日では、

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    【自分語り】1推しの卒業によせて . 私の1推し、ゆきりんこと柏木由紀ちゃんが、17年に渡り在籍したAKB48を卒業することになった。 この機会に、ゆきりん推し(48ファン)としての自分自身のことをすべては不可能であるものの振り返ろうと思う。 内容からして世代がわかることも仕方ないし、限りなくゼ…

    はてなブログ | 無料ブログを作成しよう
  • pentaxx備忘録 - 問うことの享楽へ向けて - 郵便的不安たち解説(斎藤環)

    東浩紀の登場は、九〇年代の日の言論界においては、間違いなく一つの事件だった。私は彼の文章に初めて接したときの驚きを、いまでも生々しく思い出すことができる。それは一九九四年のことだった。当時の私もまた、ささやかながら文章を書きはじめたばかりのころであり、しかも東氏が批判してやまない八〇年代的ポストモダン、すなわちニューアカ的な文体を駆使してのそれは、常に実践において現実に遅れがちな精神医学のパロディのような代物ではあったのだ。だから私の驚きは、言うまでもなく彼の「若さ」への嫉妬を多分にはらんでいたことも告白しておこう。 東氏の文章は、その内容もさることながら、とにかく文体において新しかった。主語に「私たち」を用いること、まず問題設定をし、可能であれば問題の分類を試み、ありうる凡庸な回答をすべて想定した上で切って捨て、さて自身の回答を示すかと見せて、唐突にあらたな問題領域へと移動する。そこに

    pentaxx備忘録 - 問うことの享楽へ向けて - 郵便的不安たち解説(斎藤環)
  • 動物化したら何が困るのか 「動物化」をめぐって その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    考える名無しさん 動物化したら何が困るのか教えてください。 考える名無しさん 動物化はできるできないじゃなくて、人間工学が進んだ結果避けられないもの 考える名無しさん 「東京から考える」(ISBN:4140910747)の北田のような態度は確かに必要かも知れない。ただその「人間的」なものが当に必要なのかどうか。必要ならなぜ必要なのか。人間工学は快適な環境を提供してくれるけれど、その先、動物化する流れがなぜいけないのかということは誰も言えていない。社会学者よりも哲学者がもっと強く非難しないといけない立場なんだけどね。 第三の波平 工学的、そして経済学的にいうと以下のようになる。ボクはこれを「高速欲望」と呼ぶが、明らかに「動物化」だよね。isedでは「3秒ルール」の話として出ていたね。 2ちゃんねるとは板、スレと興味に分類された場にすみやかに到達し、耐えず誰かがいてすみやかにコミュニケーショ

    動物化したら何が困るのか 「動物化」をめぐって その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • ハイデガー『ヒューマニズムについて』(ちくま学芸文庫) - The Midnight Seminar

    ずいぶん前に読んだだが、私が触れたことのある哲学書の中では最高に印象深かった作品のひとつなので、ここにレビューしておく。 存在の真理への問い ハイデガーは「プラトンの真理論」という論文のなかで、プラトンからニーチェに至るまでの西欧哲学を、「理性的動物」としての「人間」をあらゆる存在者(存在するモノ)の中心に据え置いた、「主観性の形而上学=ヒューマニズム」と呼んで批判した。そして、人間中心的ではない、「存在の真理(存在そのもの)」を根に据えた、新しい哲学の創始を訴えたのである(書の訳者解説p.163)。 この論文に対し、ジャン・ボーフレというフランスの哲学者・評論家から何点かにわたる批判的な質問が寄せられた。そして、それに回答したハイデガーの書簡の内容に、ハイデガー自身が手を入れて公刊したのが書(の底)である。 哲学者としてのハイデガーの終生のテーマは、簡単に言えば「存在とは何か?

    ハイデガー『ヒューマニズムについて』(ちくま学芸文庫) - The Midnight Seminar