みたいな言い回しが後を絶たないな。 この言い回しそのものがおかしいという事を小学生にも分かるように書きたいのだが、 全然うまい事思いつかねー。 こういうのをうまく説明できる頭の良い人がうらやましいな。 でもあきらめずにもうちょっと考えてみよう。
前回のエントリの続き。 疑似科学批判に対して文句をつけるにあたり、僕はドーキンスを念頭においていますにゃ。自然科学という知的体系を高く評価するがゆえに、「神は妄想である」のドーキンスが「自然科学を宗教のようなイデオロギーにしてしまっている」点、つまり確かにある種の疑似科学批判において、宗教と科学の区別がつかにゃーようなことになっているという理路を以下に示してみたいと考えますにゃ。 参考として ドーキンスの「神は妄想である」への直接的な批判エントリをリンクしておきますにゃ 「神は妄想である」書評(1 - 地下生活者の手遊び 「神は妄想である」書評(2 - 地下生活者の手遊び 「神は妄想である」書評(3 - 地下生活者の手遊び 自然科学は公的原理 政治という社会行為においては、司法・立法・行政のいずれにおいても自然科学の知見をシカトすることは許されにゃー。 例えば、いつどこで大規模な地震がある
「科学と文化(宗教)を切り分けて考える」これは、みんなが合意できると思うんだよ。ただ、自然科学やってる人にいくつか問題を感じるんです。とりあえず3つ。一つめ。普通の人にとって、自然科学で説明できる範囲は自然科学者が思ってるよりもずっと狭い範囲でしかない。少なくともそう思っている。水伝を信じた外国の人(ほんとに教養豊かな人)に、いやそうじゃなくてと長々説明して返ってきた返答が「でもアインシュタインだって最初はキ○ガイ扱いされたんでしょ?」。ああ、これは何を言っても通じないとがっくりきた。けど、多かれ少なかれ、普通の人にとって自然科学(の世界観)はその程度のものでしかない。二つめ。はてブコメ見てたら、アルファブロガーやネットの有名人がオカルトめいたことを書くと、ああ書いちゃった、見たいな空気になるのは、「科学と文化を切り分けて考える」ことに反してる。そんなことありません、ちゃんと切り分けられま
私が書いた『ソーシャルキャピタルを構築する経済的営みとしての擬似科学批判 - よそ行きの妄想』にトラックバックされた『批判の批判に批判する - M59の記録』という記事が見事に私の盲点を照らしたので紹介しておく。 科学に無知なままに行われる科学的区別に基づく疑似科学批判と、科学的信仰を普遍化するようなニセ科学批判を批判しているという。つまり、科学を知らないで、科学を盲信・妄信する輩を批判している。 科学を知らないで、科学を盲信・妄信する人は、結局「擬似科学も信じてしまう(信じるおそれのある)人」ってことだ。結局、これはただの擬似科学(妄信・妄信)批判だった。 擬似科学批判批判論を、盲信する人に言い聞かせたって意味はない。その論自体を盲信するだろうから。この問題の解決策は、科学(=物事を盲信・妄信しない姿勢を保つこと)をさせることなんじゃないか。 批判の批判に批判する - M59の記録 私は
うまくいかない日に仕込むラペ 「あぁ、今日のわたしダメダメだ…」 そういう日は何かで取り返したくなる。長々と夜更かしして本を読んだり、刺繍をしたり…日中の自分のミスを取り戻すが如く、意味のあることをしたくなるのです。 うまくいかなかった日のわたしの最近のリベンジ方法。美味しいラペを…
科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想 http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081115/1226722771 http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081115/1226722771 この記事に対するコメントや、ブコメを見て戦慄した。 駄目だこいつら……早くなんとかしないと……と夜神月ばりの顔になった。 もちろん、エントリ主ではなく、ブコメで叩きまくってる連中にだ。 ぼくはなぜ自分が疑似科学批判論者にイラッとするのかわかった。 彼らはまず、自分(科学)が唯一の正義であると信じて疑っていないのである。 正義の押し付けは傲慢である。 そんな態度じゃ、いくら正しいことを主張していたとしたって、話を聞いてもらえないというのが解らないのだろうか? その偏執的で高慢な意見の数々
トンデモ水ビジネスの片棒を担いでしまったはてな匿名ダイアリーという記事。 何の事かと思えばGoogle広告に表示されてたものがどうやら似非科学ビジネスのものだった、ということらしい。まあよくあることだよね。こういうのは見つけ次第Adsense設定から競合広告フィルタを設定するといい。情報商材系なんかも含めてブロックしとくとクリック単価があがったなんて話も2chあたりで見掛けた記憶がある。俺はめんどうなのでやってないけども。 さてはてこのような疑似科学とか似非科学とか呼ばれるものたちは、なぜいつまでも無くならないのか。おもしろ科学読本的な書籍や健康になれるとうたった本を販売し、それが広まることで関連グッズを売り上げてたりする。ほとんど詐欺みたいなもんだ。 古くは天羽優子さんの水商売ウォッチングのように、水関係のもの、整水器販売やらなにやらがかなり多いし、極端に広まったものとしてはマイナスイオ
今まで貰ったレスポンスははっきり言ってどれもこれも取るに足らないものだったが、その中でid:trshugu氏のコメントは最も私を悩ませた。「ポストヒューマンの人は頭のよい解き方をするなぁ。もっとバカになっていいと思うぜ!俺みたいに。」id:trshugu(著)『フイゴ、フィーゴ、ジダン - 引火道』はてな(2008)、閲覧日時:2008/11/11 19:40 ところが、私はもともと「バカになっていい」と主張している。過激な発言をピックアップすると以下のようになる。思考停止の勧め・「馬鹿」な我々は、「なんちゃって」理解することと「嘘を吐いて」理解させることが重要になる。・学問の『真の道』を断念して、『合っている』もので満足しなければならない。・知を増やすことよりも知を造形することが必要となる。・教養や本は知の造形には何の役にも立たない。・「思考停止とは、美しく、魔術的である」。 要は、思考
分析の面白さは、実は勝手に意味を見出す面白さなんだと思う。 ・はてなブックマーク数(○○users)は何を表しているのか - インターネットください ・はてなブックマーク - はてなブックマーク数(○○users)は何を表しているのか - インターネットください だから、こういう議論の展開は意外というか、興味深い。これは新たな意味を付加せず、誰かが付加した意味を根こそぎ剥ぎ取って見せた例だからだ。この方向性の行きつく先は決まっていて、ブックマークコメントにあるululun氏の「(○○users)があらわしているのは、当該エントリをブックマークしている人の数ですよ。」ということになる。つまり、当たり前である。こういう議論が成り立つのは、当たり前が当たり前じゃなくなったときだ。要するに、「たくさんブクマされるエントリーは良エントリー」というような後付けの意味が、本義のように広く誤解された状況で
いい加減スレが伸びすぎている気がするけど、 ちょっと自分の興味ある分野なので無理やり引き伸ばしてみるテスト。 人間という現象を古典力学(量子以前ってことですよね?)で正確に表現できるかどうかです。 厳しいようであれば違うアプローチのほうが適している可能性が高いです。 そもそも、何をもってして「人間という現象を(中略)正確に表現」したと言えるのか、 増田の定義が不明瞭だな。 自然科学の立場からなら、何が「正確な表現」なのかある程度定義できる。 ある時刻tにおける人間のニューロンの発火状態やら周囲の環境やらをすべて把握できたとして、 次の時刻t+1にどんな状態へ遷移するか。 これが完全に予測できれば、人間を動かす法則が全部把握できたと言えるだろう。 別に古典力学だけじゃなくて、量子力学だろうが標準モデルだろうが超弦理論だろうが何を使ったって構わない。 上記のような問題に限れば、自然科学を極めれ
ときおり、絶望的な気分になることがある。この世の人間というのは、実はそれほど頭が良くないのではないかと思うときだ。 実生活でも使えるディベートテクニック - タケルンバ卿日記 こんな記事が話題にあがっていた。別に俺はディベートやってたわけでもないけど、ここにあるような話し方、考え方は普通のこととして受け入れているものだ。 いや、別にタケルンバさんの記事が悪いと言ってるわけじゃない。無自覚にやってることを自覚的にやるためにも、こういう記事は非常に有用だと思う。 ただ、これを見てまた少し、俺は絶望的な気分になった。 「中華はイヤだ」と主張し、昨晩の料理写真を出したとしても、それだけじゃ何のことかわかりません。これまた「で?」という話。何でそういう主張につながるのか。何故そういう写真が出てきたのか。周りは意味がわかりません。主張と証明の間がリンクしないのです。唐突過ぎて意味が通じないのです。 …
結婚して子供が産まれたらどうでも良くなる。 人は何か満たされていない不安に突き動かされる、一部の人は何か見えないモノに向かう。それが「萌え」だの「非モテ」だの「はてな村」だのって事だ。ここで重要なのが見えないモノって事。見えるモノでは客観的に考えやすく、批判の対象にもされやすい。しかし、見えないモノなら安心だ。自分の中だけのものになるから、他人に批判されても、それは"的外れである"と言い訳が出来る。見えない敵と戦う事こそが重要なのだ。自分も客観的に考えないように出来る事こそが重要だ。 不安に突き動かされる事は何も悪いことでは無い。それが人間の原動力でもある。ただそれが生産性の全く無いモノへ向かうのは・・・意味の無いモノに意味を見出す愚考は止めよう。 あのjkondoでさえ、結婚し、子供が産まれた事で、幻を追うのは止めたんだ。 異性を捕まえられない人、子造り能力が無い人にとっては幻を追う事は
近代哲学の認識論で読み解くイモ畑問題 http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20081016/1224161426 彼らがこの記事を読んでブクマする過程で、「登園前の園児も立ち寄っていた」という記述はスルーされ、「保育園側の大人たちが子供をつれてきた」ことになってしまったらしい。まさしく、人間の認識が客観を規定したのだ。 哲学の話は興味深かった。 だけど、園児はそういう場所に幼稚園に行く前に自分では立ち寄れないだろ。どう見ても親が連れて行ってるだろ。 プラカードまであるし。親は準備しまくりじゃない? 「人間の認識が客観を規定したのだ。」って結論は無理じゃないの? いや、保育園側の大人たちが子供をつれてきた以外に園児がどうやって来たのか、考えを聞かせて。 涙ぐんで親にすがりつく園児の写真。 野菜刈り取られ…涙ぐむ園児 保育園の畑を大阪府が行政代執行 http://sank
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/munyuu/20081003/1223053665 聴衆への説得力を競うためなら「人格を落としてめて良い」」の? id:NATROMは、相変わらず教条的だなあ。 バーリトゥードに拳銃を持ち込む選手がいないように、「常識」としてのルールはどこにでもあるよ。 id:NATROMのような人のためにわざわざ説明しないだけで。 あと、他人と自分が同じだということを確認するためにブログを書いたりしていない。 ディベートで相手がこちらの人格を貶めるような発言をしたと判断したのなら、それを反撃の手がかりにすればよいだけです。 きれいな議論をすることと、議論そのものに勝つことは違うんだけどね。 「何が何でも勝たなければならない議論」を想定できない人には理解できないだろうけど。
すくらむ国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。 「働くもののいのちと健康を守る全国センター」が発行している『全国センター通信』(10/1)に、NPO法人・自殺対策支援センターライフリンクが主催した「WHO世界自殺予防デーシンポジウム『自殺実態白書』から見えてきたこと」(9月14日開催)の内容が紹介されています。 シンポジウムの中での東京大学大学院教授・姜尚中(カンサンジュン)さんの発言が興味深かったので紹介します。 「自殺」というと個人が自分の意思で選択した「死」という印象が強い。しかし、自殺は、個人が現実には生き続けたいのに、経済的・精神的に追いつめられた結果起きる社会的なもので、「困窮死」「社会死」と呼ぶべきものではないか。 『自殺実態白書』によると、愛知県豊田市など工業地帯、企業城下町とされる地域での自殺者が多い
テンションに波がある人。躁鬱の気がある人。気分にムラがある人。そういう人にとって怖いのは、実はもの凄く楽しいひとときを過ごした直後。心から笑い、心からスッキリし、心から充実感を味わった後。その後が一番怖いのです。落ち込みやすい。 底の見えない暗闇に足を踏み入れ、ひたすら落ちている感覚。底はどこだろう。いつ? もしかしてどこまでも落ちていくの? もう上がれないの? 深い深い漆黒の暗闇。光が届かない、光が見えない。さっきまで見えてた光はどこ? 何故自分はここにいるの? もうダメなの?終わりなの? 成功体験なんかも意外と落とし穴が待っているものです。うまくいった。できた。やれた! しかしその直後に闇がやってくる。うまくいかない。できない。何もやれない! どうしたというんだ。何が起きているんだ。原因がわからない。どうしたんだ、自分。そしてどうすればいいんだ。どう動けばいいっていうんだ。 こうなる原
生存権は社会権に属する。したがって、一般的には上述の定義のように国家に対する請求権(社会権)の意味合いが強いと認識されている。ヴァイマル憲法下の生存権も請求権として認識されていた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%AD%98%E6%A8%A9 社会権という意味合いの権利 しかし、それは生存権の自由権的側面を否定しない。現在では生存権は社会権であると共に自由権でもあるという複合的な性質を有すると考えられている。具体的にいえば、人が現状から最低限度を下回るような立法がなされた場合には当該の人は生存権の自由権的側面を侵害されたとしてその立法の合憲性を争うことができる。また、請求権的側面からすれば、自らの現状が最低限度の生活を下回る、として国に対してその原因の立法を違憲を理由として改廃するよう求めることができる。 自由権としての側面 国が生存権を
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く