基本的に間仕切りのない、板の間に丸柱が並 ぶだけの寝殿造(しんでんづくり)では、利用の仕方により適宜さ まざまな障屏具(仕切り具)を用いた。儀式や 饗宴(きょうえん)のように広い空間が必要なときは、障屏具 を取り払い、プライベートな場合には、御簾(みす)や几帳(きちょう)を用いて空間を仕切るのである。ここでは、 寝殿に設置された戸類を含めて、こうした障屏 具の種類と用い方についてみてみよう。 移動可能な室内障屏具のひとつで、土居(つちい)(木 製の四角い台)の中央に二本の細い円柱を立て、 その上に横木を渡し、帳(とばり)を垂らしたものである。 帳は幅が縫い合わされたもので、縫い合わせる 時に真中を縫わずに風穴(かざあな)としてあけておき、そこから外が垣間見(かいまみ)られるようになっていた。帳の一幅ごとに幅筋(のすじ)という布の帯が付けられ、裏 で折り返して、表に二条になるように下げられ
印刷 美濃山廃寺から出土したひょうたん形土製品=13日、京都府八幡市、高橋一徳撮影 7世紀から9世紀まで存続したとされる京都府八幡市の美濃山(みのやま)廃寺で、高さ20センチ前後のひょうたん形土製品が13点出土した。同市教委と府埋蔵文化財調査研究センターが13日発表した。願い事をする塔の一種とみられ、この形の土製品の出土は全国初という。 新名神高速道路の建設予定地の丘陵地約1万6千平方メートルを調べたところ、寺院の中心施設とみられる掘っ立て柱建物跡(東西約20メートル、南北約10メートル)の南側で見つかった。醍醐寺五重塔(京都市伏見区)など、塔の最上部(相輪)の先端につく宝珠と竜車に似た形で、塔の一種と判断した。 願い事をかなえるために小さな塔を多数作った例としては、奈良時代後期に称徳天皇が法隆寺など10の寺院に置いた木製の「百万塔」が文献で確認できる最古とされる。平安時代後期には、
頼長が残した日記『台記』には、うら若き貴族から家来たちまで、男性たちとの赤裸々な恋愛記録がつづられている。当時、男性同士の恋愛、「男色」自体は珍しいものではなかったが、子孫に伝え残す日記にその詳細を残しているのは珍しい。なぜ、頼長は恋愛日記を書き残したのか?そこには、ある恐るべき目的が隠されていた。平安京の夜に妖しく開く“悪の華”のキケンな顔とは? 頼長にある日、天皇を呪い殺したとの疑いがかけられる。これは、優秀な頼長を嫉妬し続けた兄・忠通と対立する貴族たちの策略だったのだが、呪いを信じる貴族たちは、大混乱。頼長は孤立を深めていく。この兄弟ゲンカは、やがて朝廷を二分する対立へと発展。保元の乱へとつながっていく。貴族の世から武士の世へ。時代の転換点に、陰謀渦巻く朝廷の中で、はかなく散っていった“悪の華”の悲劇の物語。
仏の顔を刻んだとみられる土器の破片=岩手県北上市立埋蔵文化財センター提供 岩手県北上市立埋蔵文化財センターは6日、同市にある根岸遺跡の平安時代の集落跡から、仏の顔をへらで刻んだと見られる土器の破片が見つかったと発表した。10世紀代後半に、祭祀(さいし)用としてつくられたとみられる。 土器に顔の形を線で刻んだものは、飛鳥から平安にかけた古代期では千葉県八千代市での出土に次いで2例目だという。仏教関連遺跡に詳しい国学院大の笹生衛教授は「暮らしの中に個人の信仰が芽生えてきたことを示す貴重な資料だ」と話す。 土器は5センチ四方。皿か茶わんの底の破片と見られ、内側に、目、鼻、口、鼻の下の溝(人中)が刻まれている。土器が埋まっていた場所は礼拝用のお堂跡と考えられており、刻まれている人中も仏画によく描かれているため、施された顔は仏を模した可能性が高いという。(但木汎)
(角川選書・1680円) ◇書物から血肉となったやまと歌 古代人の息遣いを今に伝える『万葉集』。歌や歌人の愛好者は多いが、歌集そのものを問い直す機会はあまりない。「原本は巻物に漢字のみで記され、朗読されていた。本書では原点に返り、『書物としての』姿に光を当てたいと考えました」 そもそも、なぜ「やまと歌」が集められたのか。全20巻の冒頭に置かれるのは、雄略天皇の求婚の歌だ。<そらみつやまとの国>の王者として、堂々と名乗りをあげる。2首目は、豊かな国土に<うまし国ぞあきづ島やまとの国は>と満足する舒明(じょめい)天皇の歌。本書の第1章は「この2帝がどうして選ばれたか」の謎解きから始まる。 系図をたどると、雄略は「皇女を母に」生まれている。舒明は天智・天武・持統という皇統の始祖。この配置から見え隠れするのは、輝かしい3帝の血を引き、代々皇女を母としてきた軽皇子(かるのみこ)(文武天皇)の「正統性
当麻(たいま)寺(奈良県葛城市)の綴織(つづれおり)当麻曼荼羅(まんだら)(国宝)を納めた当麻曼荼羅厨子(同)から昭和33年に見つかりながら、寺内に収蔵されたままだった、男性の横顔が墨で落書きされた敷板が同市歴史博物館で初公開されることになり、12日、報道陣に公開された。 厨子が制作された平安時代初期のものとみられ、同館は「仕事仲間を描き封印したのでは」と推測。13〜16日に公開される。 厨子は高さ約5メートル、最大幅約6.9メートルで国内最大級。解体修理中、本体下の柱の敷板(長さ約40センチ、幅約10センチ)に男性2人の横顔が上下に落書きされているのが見つかった。今回、同館の担当者が展示資料を借りるため寺の収蔵庫を調べた際に確認し、公開することにした。 落書きの男性は帽子をかぶり、唇が厚いのが特徴で、生き生きとした表情。板が取り外された跡がないことなどから、厨子の制作者が落書きした可能性
桓武天皇(かんむてんのう、737年〈天平9年〉- 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)は、日本の第50代天皇(在位:781年4月30日〈天応元年4月3日〉 - 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)。諱は山部(やまべ)。 平城京から長岡京および平安京への遷都を行った。また、践祚と日を隔てて即位した初めての天皇である。現代の皇室[4]及び桓武平氏の祖。 白壁王(後の光仁天皇)の長男(第一皇子)として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済系諸蕃氏族の和氏の出身である和新笠(のちに高野新笠)。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)[注 1]。その状況が大きく変化するのは34歳の時に称徳天皇の崩御によって父の白壁王が急遽皇位を継承することになってからである。 父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中
出土した木簡に書かれた「字垂楊池」の文字=岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター提供 水田の無断耕作を禁じる立て札に使ったとみられる10世紀の木簡が、岩手県奥州市前沢区の道上(どうのうえ)遺跡から出土した、と岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センターが20日発表した。地名に付く「字(あざ)」が書かれたものとしては国内最古の木簡で、古代に西日本と同様の土地支配が東北地方でも行われていたことが分かったという。兵庫県の袴狭(はかざ)遺跡に次ぐ全国2遺跡3例目の「禁制木簡」でもある。 木簡は珍しい棒状で、長さ約46センチ、直径約4センチ。07年8月に発掘され、解読・保存作業が行われてきた。滑らかに削られた表面に、漢文体で40字以上の文字が6行書かれている。出土状況や理化学分析から、10世紀のものであることが分かった。 同センターの発表では、本文は「禁制田参段之事」(三段=約30アールの水田に関す
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く