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ブックマーク / www.sinseihikikomori.com (30)

  • ブログが誰にも読まれない。

    ブログを書いても誰にも読まれない。読まれないならばそれでいいと引き下がるわけにはいかない。何故ならばブログとは投資であり、アフィリエイトやらアドセンスやらで金を儲けるための手段だからだ。世界がそうであるのと同じようにインターネットもまた現金のつかみ取り大会だ。単純な話である。人間は金になる。アクセスは金になる。だからブログが読まれないのは困る。 ブログが誰にも読まれないと言っている人達が困っているのは確かだろうが、それはブログが読まれないから困っているのではない。思うように稼げないから困っているのである。金の為にブログを書いて金になるならみんながブログを書くだろう。ブログを書いても多くの場合金にならないから誰もブログなど書かぬのである。ブログを書いて手に入るものはただ一つ、自ら己が書き残したブログだけである。無論そんなものに価値はない。少なくともは、誰かにとって。

  • ドタオートチェスのこと、人生のこと、Eスポーツのこと、本当に困っていること、誰かに助けてほしいこと。

    ドタオートチェスについてはこれまで散々語ってきたが、それはビデオゲームの話だった。今日はビデオゲームの話ではなく、僕自身とドタオートチェスの話をしたい。なぜ関わることになったのか、なぜ関わり続けているのか、何を目的としているのか。その辺の話である。 どうしてこういう話を突然書く気になったのかというと、先日しめじという私に懐疑的な人に通話でアドバイスを頂いたのだが、「完全な異常者だと思ってたが思いのほか普通だった」と言われたのは、おそらくその辺に原因があると思ったからだ。つまり、外部から見れば行動原理が理解出来ないということなのだろうと思う。それは尤もな話だ。僕は僕のような人物をインターネットで見た事がない。唯一無比ではないにせよ、かなり特殊なケースだろう。大きく外れた例外値なのだから、その点において紛れもない異常者なのだが、「異常者だと思っていたがそうではなかった」と言われたので、何かを書

    ドタオートチェスのこと、人生のこと、Eスポーツのこと、本当に困っていること、誰かに助けてほしいこと。
  • 臨死体験をしました。

    僕は昨日死にました。けれども今日は生きています。命のないところから、命が生まれたのです。生命の誕生、即ちここに素敵な神秘があります。けれども残念なことに、ここに生まれた生命は、一昨日までの僕と同じ生命なのです。38億年前の偶然から起きた不思議な奇跡とは違い、無から生命は生まれませんでした。ただ一度死んだ僕が、生き返ってしまっただけなのです。 インターネットは誘惑で満ちています。何故ならば、インターネットは素敵だからです。僕達の生きている世界には、素敵なことなんて何もありません。ひとたま98円の出来の悪い白菜を、テフロンの禿げたフライパンに油をしいて焼き、それに醤油を回してかけて、白米をべる毎日です。欲はもうありません。ただ空腹があるだけです。インターネットは違います。おいしいもので満ちています。インターネットを見ているだけで、欲が溢れ出てきます。素敵な画像が、素敵な音楽が、素敵な動画

  • League of Legendsはなぜ、dota2に完全敗北を喫したのか。

    「dota allstarsは死んだゲーム」 有言実行の野望の男はそう言い残して死にました。 League of Legendsがdota2に勝ち続けていたあの頃を、僕らは今でもときめきと共に覚えています。けれどもそれは、遠く過ぎ去った昔の出来事。これから先、League of Legendsがdota2に勝利する事は決してありません。少なくとも僕はそう思っています。League of Legendsは完全に敗れ去ったのです。輝ける栄光の日々は、もう二度と戻りません。ここからは、dota2の時代です。League of Legendsは所詮、League of Legendsでしかなかったのです。 League of Legendsは世界中ほとんど全ての地域でdota2に対して完全なる勝利を収め、覇権mobaとしての地位を完全に確立させました。けれども、世界中で一つだけ、dota2がLea

  • 池内恵とインターネット。人生は誰かを悲しませない為にあるんじゃない。

    今日も今日とてインターネットをしていると、池内恵がインターネットと戦っているのを目にしてしまい、とても悲しい気分になった。ぼくたちは、その人生の全てをインターネットに費やし極めた、インターネットの名人だから、インターネットと戦うことが、どれほどまでに不毛であるかを知っている。知り尽くしている。知り尽くした上で、インターネットと戦って負けたり、インターネットと戦って消耗したり、そんな毎日を過ごしている。それが自分の人生なんだと、自分の人生を受け入れている。そんな人生が存在するのは仕方が無いし、そんな人生があったって、別にいいじゃないかって思っている。だって、インターネットはそれ程までに、最高にたのしいものだから。インターネットは人生に値する。けれども、同じ事を池内恵がやっているのを見てしまうと、とても悲しい気分に陥る。僕は池内恵じゃない。池内恵なんだから、もっと他にやることがあるだろって思っ

  • 不倒城のしんざきが書く糞以下のテキストを、僕等はもう二度と目にしなくて済む事を祝う日。

    私達は、自らの体験について語る事に極めて抑制的である。私達というのは、ゲーマーであり、かつテキストを書いている人間のことである。そのような態度に陥らざるを得ない最大の理由は、老人の昔語りは美化された自らの人生歴史に対する言及に他ならず、即ちそれは自虐であろうとなんであろうと自慢である事を避けられず、私達によるゲームに対する言及は、年配者の自分語りによる自慢へと陥る事を避けられない。人は雑談をしているつもりが説教になるだとか、人は親身になってアドバイスをしているつもりがうざいだけの自慢になるといった、我が国に存在している当たり前の事は、当然のようにして私達の身に降りかかる。 こと、ビデオゲームはさらに大変である。 ビデオゲームは全てが接続されている。突然変異的にいきなり生まれたビデオゲームなどは存在しない。何かがあって何かがある。2018年に流行っているゲームのどれか1つを遡って辿れば

  • 誰がブログを殺すのか。

    幾つかのブログの真性引き篭もりに対する言及を見ていると、頭が痛くなってくる。 かつて、俺たちはインターネットだった かなり名の知れたブロガーでさえ、この程度の事しか書かない。 だから僕はこんな糞エントリーを書かざるをえない事態に追い込まれた。 菊千代は死んだ。 なぜだ。 菊千代は死なない。 なぜか。 「菊千代はなぜ死んだのか。」 その問いに対する回答は、完結にして明瞭である。 映画だからだ。 映画だから菊千代は死んだ。 映画だから菊千代は死んだのだ。 映画であるが故に菊千代は殺されたのである。 誰が菊千代を殺したのか? 愚問である。黒沢明である。 黒沢明に殺されたのである。 即ち、菊千代は死なない。 ここは映画ではない。 即ち、菊千代は死なない。 黒澤明はもういない。 黒澤明は死んでしまったのだ。 それでも僕等は生きている。 生きているから生きねばならない。 ブログを書いて、生きねばならな

    murashit
    murashit 2016/04/04
    なぜか5年ぶりくらいに読んだ
  • なぜdota2大会の賞金は22億円で、LoL大会の賞金は僅かに2億6300万円なのか。

    まさに今、The International 5(以下、ti5)というdota2の大会がシアトルで開催されています。賞金総額は1790万ドル。日円にして、22億2000万円です。 一方で、League of Legendという世界で一番プレイヤー人口が多いビデオゲームの大会の賞金総額は、213万ドル。たったの2億6300万円です。dota2よりも遙かに人気があり、5倍以上ものアクティブユーザーを誇るLoLですが、大会の賞金額ではdota2に遠く及びません。それは、何故でしょうか? その原因は、dota2の課金システムにあります。 ti5に代表されるdota2の公式大会では、プレミアムチケットと称されるチケットを購入する事で、様々なゲーム内アイテムが手に入ります。それらゲーム内アイテムは、この機会にしか手に入りません。ti5のプレミアムチケットを購入しない限り、絶対に手に入らないのです。

    なぜdota2大会の賞金は22億円で、LoL大会の賞金は僅かに2億6300万円なのか。
  • 楽園追放

    アニメを見た。くだらないアニメだ。それだけならばよくある話なのだが、問題はそのアニメが4000円もしたということであり、この4000円は僕の人生において最も無駄で腹立たしい金だった。端的に言えば僕はたかだか4000円の事で完全にぶち切れて僕の人生は台無しになったのである。4000円と言えば大金である。天ざるが3回べられる。天ざるの話をするときりがないので、二度としない。つまりあの忌々しいくだらないアニメは天ざるを盗んだのだ。それも3回も。もしかしたら、3回のうちの1回は天ざるじゃなかったかもしれない。上天ざるだったかもしれない。具体的に天ざるというものが幾らくらいのべ物なんのか僕は知らないけれど、仮に天ざるが1180円で、上天ざるが1580円ならば、天ざるのうちの1回は天ざるではなく、上天ざるだったのだ。上天ざるというからには、ただの天ざるではない。具体的に上天ざるというのがどういうも

    murashit
    murashit 2015/05/09
    「須崎西をおもしろがれる男の言うことは信じるな」
  • ブログのエントリーになるはずだったもののお墓。

    これは墓であって、ブログのエントリーではない。 たとえば今日僕が死ねば、僕が昨日や一昨日に書いておきながらも投稿ボタンに辿り着けなかったエントリーは永久に、インターネットの世界に現れない。けれどもそれらとは別に、僕が永遠の命を得たとしても、永久にインターネットの世界に現れないブログのエントリーだってある。一生懸命書いていたのに、何かのきっかけでふと、投稿ボタンに辿り着くという意志を消失し、ブログのエントリーには必要不可欠である魂というものを失ってしまった、テキストファイル上に残された痕跡。ネットサーフィン中に見かけたふとしたきっかけで、そんな古い痕跡のことを思い出し、それを探り当て、ブログのエントリーとしてではなく、ブログのエントリーになるはずだったもののお墓として、ここに投稿しておく。1日に10時間も一心不乱にブログを書いた日に限って、何故か僕のブログに投稿されるのは僅か2行のエントリー

  • インターネットを浄化せねば

    インターネットの全てが不愉快で、その不愉快さは極まる所まで行っているのだけれど、それはインターネット全てが不愉快なわけではなくいやがおうにも目に入るいくつかの光景が果てしなく不愉快というだけの話で、決してインターネットの全てが不愉快というわけではない。ただインターネットの全ての場所でそういう光景は見られるというだけ。せいぜい5人や10人の不愉快な人物が居るだけだったり、あるいは極端な話だと一人の不愉快な人間によって全てが不愉快に感じられたりというだけで、決してインターネットの全てが不愉快なわけではない。そうは言い聞かせてみてもインターネットの全てが不愉快で、インターネットをしてしまうと全ての感情が不愉快に引きずられて何事も不愉快。福岡か高知か大阪の駅前で悪そうな人に片っ端から声をかけて10万円でトカレフを買って不愉快な一人を一人ずつ殺していけば素晴らしいインターネットが戻ってくるはず。イン

  • netcraftのはてなでまんこ

    まんこ分配業ほどおいしい商売は他に無い。 まんこを集め、まんこを従え、良さそうなまんこは自分でまんこしながら、まんこに飢えている人間にまんこを分配していく。そう、それはちょうど、我が国で一番の高額納税者がやっているのと同じように。 まんこ分配業に適した場所、なんてものはない。何故ならば、まんこ分配業はいつの時代、どんな場所、どのような環境であっても成り立つ商売だからだ。そこにまんこがあって、そしてまんこに飢えている人間が居れば、そこはまんこ分配業に適した環境なのだ。つまり、人間が生存している場所ならばどこだって、まんこ分配業に最適な場所だってことなんだ。そこにまんこがある。そしてまんこに飢えている人間が居る。それに気がついた人間がやってくる。まんこ分配業を始めるためにやってくる。どんな場所も、どんな時代も、どんな国であっても例外はない。世界中ありとあらゆる場所ありとあらゆる時間軸において、

  • 女として生きていくのは辛い。

    あの日夢見た輝かしいインターネットの世界も今じゃ、僕を侮蔑する広告で満ち溢れている。 アコム、プロミス、育毛剤、ルフトハンザのビジネスクラス。朝日新聞、毎日新聞、日経新聞電子版。お見合い、出会い系、DMMのエロゲーム、やっててよかった公文式。電子書籍、ボタンの無い携帯電話にウインドウズのタブレット。パチンコ、パチスロ、2週間での痩せ薬。得体の知れない豆から作られた発泡酒、アルコール飲料、ビール。クレカ、クレジットカードクレジットカードで作った借金の清算。包茎、レーシック、植毛。賭博サイト、証券会社、二日酔いに効く丸薬。東京のマンション投資、マレーシアのマンション投資、借金の過払い請求の弁護士事務所。 インターネットという場所は、見る者を喜ばせる為に何かを書いたり何かを作ったりする人達によって作られる場所ではなく、見る者を侮辱しあざ笑い、その心を痛めつけようとする広告を見せつけたいが為に何

  • 人生を一つにしよう。

    いくつもの事をいくつも同時に夢見て、いくつも同時に進めていると、全てのことが混ざり合う。マーブル状になったその現実をスプーンですくってべていると、少しべただけで満足してしまう。空腹は去った、それで、さて。 餓えなければならない。僕は餓えなければならない。私は餓えなければならない。空腹で身もだえながら部屋中の十円玉をかき集め、マーガリンの挟まったパンを歩いて買いに出かける程の、飢えを受け入れなければならない。それを望まねばならない。そして戦わねばならない。 餓えて、餓えて、餓えた末に僕が望んでいるものは、塩で煮詰めた段ボール程度の未来である。飢えと闘い、飢えに打ち勝ち、たとえばそれに辿り着き、気の済むまでべたとしても、僕は幸せにはなれない。飢えは僕を幸せにしない。飢えとの戦いは、僕を幸せにはしない。 僕を幸せにするものは、おそらく穏やかな暮らしである。そして僕はそれを望んでいない。僕が

  • アル中になりたい。

    ネットサーフィンをしていると古いドキュメンタリー番組に行き当たった。 それは東京のどこか見窄らしい町の一角を舞台にしたドキュメンタリーで、高校の時にいじめられて引きこもり、酒浸りでアル中になった初老の男が町に出て働くという番組だった。男は虚ろな目で番組のスタッフに焼酎をねだり、4リットルはあろうかという巨大な焼酎のペットボトルと、空っぽの一升瓶に囲まれて暮らしていた。父親は幼い頃に死んでおり、その位牌や遺影それらを納めていた少し高そうな木製の棚は、酔った男の火の不始末により真っ黒に焼け焦げている。生活の糧は明日にも死のうかという瀕死の老婆の僅かな年金。 その年金が老婆の手によって郵便局から引き出されると、アル中の男とは違う理由で足元の定まらない腰の曲がった今にも倒れそうな年老いた老婆は、年老いてなお衰えぬはっきりした勇敢な意識だけをたよりに東京のどこかで古くから忘れられた見窄らしい町を颯爽

  • インターネットはつまらなくなった。

    「ネットがつまらない」=「自分がつまらない」 は言い過ぎとしても いやはや結構。 ようするにおまえ、おまえな。おまえ。 おまえがくだらないのおまえ。 こう揶揄した光景を、僅か二日後に実際に目にするとは。 インターネットはつまらなくなった。 なぜならば、インターネットはあほくさくなくなったからだ。 かつてのインターネットはあほくさかった。 何をやっても得られるものはなかった。 コメントもなかった。 web拍手もなかった。 いいねもなかった。 リツイートもなかった。 グーグルもなかった。 アドセンスもアフィリエイトもなくて、 アクセスカウンタすらなかった。 アクセスカウンタがないと、書いても書いても、それが人に読まれているのかどうかがわからない。そんな空間で何かを書き続ける。それはとてもナンセンスで、とてもあほくさい行為だった。それでも人々が何かを書いていたのは、他にやる事がなかったからだ。あ

  • 山口県に憧れて。

    山口県で1人の男が何人かを殺して山に逃げたという話を目にした。人口は10人ほどで、皆老人ばかり。山口県というところは、殺したい人を簡単に殺せる、夢のような世界だ。殺人が日常的に横行するメキシコの麻薬カルテルの大ボスですら、こうは行かない。対麻薬戦争を裏で牛耳るバラクオバマを殺したいと思っても、その願いは叶わないし、それどころか自国のフィリペカルデロンすら殺せずに終わった。プーチンも毛沢東もスターリンも、大勢の人を殺したが、殺したい人を殺せたわけではない。スターリンがヒトラーを殺したいと願わなかったとは信じがたい。世に言う殺人鬼はどこかで妥協し、どこかで自分の心を裏切っている。当に殺したい人はどこか他の場所に居たはずだ。しかし物理的に殺せなかった。だから諦めた。小学校で包丁を暴れた人殺しも、秋葉原の路上で暴走した人殺しも、三菱の工場で人を刺した人殺しも、皆妥協の産物として人を殺した。当に

  • 僕はしなもん

    しなもんは糞だ。当然の理だ。しなもんはゴミだ。自明の理だ。それが理解出来ない奴は、ブロガーではない。そんな事も理解出来ない奴は、ブログとは何かを未だ知るまい。まず第一に、しなもんは犬だ。第二に、犬は日語を書けない。第三に、しなもんは日語でブログを書いている。おかしい。これはおかしい。明らかにおかしい。何かがおかしい。そして糞だ。そしてゴミだ。異常事態だ。しなもんがブログを書いているという事実を、異常であると捉えられない人間が存在しているとすれば、それはもはや人ではない。犬だ。しなもんの犬だ。 犬は日語を書けない。犬はキーボードを叩けない。犬は、ブログなど書けぬのだ。いや、確かに、確かにである。人の言葉を完全に理解する猿が居る。手話で2000語を喋るという。そのような猿も居るのだから、そのような犬が存在する可能性もある。しなもんという犬が天才的な才覚を持つ、並外れた犬である可能性も否定

  • 殺せ、殺せ、死んだブログは皆殺せ。

    命の有るブログは面白い。そこでは命が踊っている。喜びが踊る。悲しみが踊る。憤りも踊る。そして何よりも情熱が、生きているブログでは踊っている。生きているブログは面白い。魂なんて言葉を使う柄じゃあないけれど、命の有るブログには魂がある。人々は命をコンテンツとして消費し、ブロガーは命をコンテンツとして提供する。そして命はいつか尽きる。魂も失われる。 僕達は生きている。この世界を生きている。毎日何かをべて、毎日何かを吐き出す。太古より続く同じ営み。その営みと同じように、人々はブログを書いている。その営みを続ける為に、人々はブログを書いている。ブログを書きたくて、書かざるを得なくて、止め処なく溢れる踊る命をどうしようもなくて、それがブログとして解き放たれる。そんなブログはもう見ない。どこを探しても滅多と見ない。息を吐くようにブログを書いて、稼いだお金で天丼をべる。インターネットのRSSで、僕等が

  • Pythonで空は飛べぬと証明してほしい。

    直視に耐えない現実を生き続けていると、妄想に取り憑かれるのは自然なことである。妄想は1人の人間を耐え難い環境から脱出させる為の力である。妄想とは、未知の大海原へとたつための帆でありオールである。また竜骨であり、船体でもある。ある時はライムであり、ある時はキャベツである。へさきに舞い降りて羽を休める鰹鳥であり、波間を跳ねながら虹色のしぶきを上げて進むイルカの群れである。地球に生命が生まれてからの長い長い苦難に満ちた年月を、私達の祖先は妄想という力によって生き延びてきた。人とも呼べぬ私達の祖は、妄想とも呼べぬ原始の妄想を手に未知へと挑み、新たなる境地を切り開き、旅を続け、僅かな生存空間を見つけた。そして生きた。生き延びた。そのような過去を持つ私達には、生まれながらにして妄想という能力が備わっている。妄想とは、生き物としての資質である。 しかしながら、現実は無情である。僕が賢明に生きたこの人生