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タイトルで完結しているんですが。 今回の大阪の件でもそうなんですが、殺人事件の加害者についての実名報道の是是非非が議論される中、何故か被害者については、昔から一貫して実名報道が貫かれております。 加害者、ないし加害容疑者の実名報道について、社会的なメリットが存在し得ることはまだ理解出来ないでもないです。まあ、こちらについても議論の余地は色々とあると思うんですが。 それに対して、被害者の実名やら個人情報やら遺族の情報やらがガンガン報道される件については、もう本当に、社会的にはどんなメリットがあるのかさっぱり分かりません。実際のところ、「興味を引いてメディアが視聴率を稼げる」以外のメリットってあるんでしょうか。 デメリットなら色々と思いつきます。 ・単純に、被害者、及び被害者遺族のプライバシーが侵害される ・被害者遺族に対する嫌がらせ、誹謗中傷などが行われるリスクが上がる ・被害者遺族の情報が
長男は6歳であって、4月から小学校に通い始めた。早いものである。 幸いというか、幼稚園については、私自身かなり子どもたちと関わる機会も多く、仲良くやっているところを実際に見ることが出来ていたし、多少の喧嘩はあれ、一方的ないじめというところまで発展するところはなく、大過なく卒園することが出来た、と思う。 が、当然だが、小学校からは色々と難しい。子どもの自意識も多いに発達する時期だし、自意識と自意識のぶつかり合いでトラブルも増える。いじめの心配も増える。 長男がいじめに遭うことも勿論心配だが、長男がいじめに参加するようなことも、決してあって欲しくはないことだ。ただ、あって欲しくないからといって、発生する可能性がなくなるわけではない。 いじめ自体は、いくら防止しようとしても、必ずどこかしらで起きてしまうことだ。子どもの集団が一日に何時間も共同生活を送るのだから、そこで何の事件も起きない方がおかし
帰り際に次女が深く寝入ったので、奥様が次女を寝かしつけている間に、私が長男6歳・長女2歳をお風呂に入れた。わしゃわしゃと体を洗わせ、わしゃわしゃと頭を洗い、容赦なくざばーーっと流した後湯船に放り込むだけの簡単なお仕事である。 その時長男と話した内容が、妙に刺さったというか、えらく真剣に聞いていたので、割と適したたとえ話だったかなーと思い、記録代わりに会話のログを残しておく。 発端は、太陽や木星の大きさについて話していたことだった。 息子「ねーパパ、もくせいって一番大きいの?太陽より大きいの?」 私「地球よりずっと大きいけど、太陽程は大きくないよ。太陽は、太陽系で一番大きい」 息子「太陽は木星の何倍くらい大きいの?千倍くらい?」 私「んーー、球の大きさ(半径のつもりで言っている)だけなら10倍とかそれくらいじゃないのかな?重さはもっとずっと太陽の方が重いけど」 息子「大きいのと重いのは違うの
子どもにゲームを買ってあげると何がまずいかなー、と考えるわけです。 で、例えば 「ゲームに夢中になって、お友達や親とのコミュニケーション不全になる」とか、 「ゲームをやり過ぎて目が悪くなる」とか、 「ゲームをやり過ぎて勉強時間や運動の時間が足りなくなる」とか、 そういう話がよく出るわけですよね。 その度に思うのが、いや、そこは叱れよと。やり過ぎだったら止めろよ、と。 確かにいますよね。ファミレスでとか、食事中とか、本来なら家族でコミュニケーションをとるべきタイミングで、ずーっとゲームしてる子とか。私自身も、そりゃないんじゃないの、と思うことはあります。 別にゲームに限った話じゃないんですが、子どもは楽しいことだったら当然夢中になりますよね。ちょっと夢中になると、自分では歯止めなんてききゃあしないわけです。 けど、同じくゲームに限らず、「今はそれをやるべきタイミングじゃない」というのは当然あ
「その話題は、「嘘か本当か」を正確に判断する必要があるくらい重要な話題か?」というのを判断する能力、あるいは、「中途半端な状態を許容して、「あっそ、ふーん」で終わらせることが出来る能力」。 いや、最終的にはごく当たり前の話に着地するんですが。 以下は、ちょっと前の記事になるのですが、下記リンクを読ませて頂いて、なんとなく思ったことです。 「それでも、僕やあなたは、騙される」のです。 今更いちいち言う程のことではありませんが、webには勿論大小様々な話題やニュースが溢れております。そして、その中には本当のこともあり、本当といえないこともないがだいぶ偏っているものもあり、話者の恣意的な判断が大部分を占めているものもあり、嘘っぽいが嘘と断言は出来ないものもあり、はっきりと嘘であると言えるものもあります。 これは前提というか、当然の現実です。 で。実際のところ、それらの大小様々な話題の中で、「嘘か
最初に書きたいことをまとめると、 A.難しい課題を苦労して解決して、自分の腕前を上げたり装備を強くしていくのを面白いと感じるかどうか B.オンラインプレイに親和性があるかどうか、いい協力相手がいるか、またはいい協力相手に巡り合えたか モンハンを楽しくプレイする為には、上記二つの条件の内どちらかを満たしている必要があると思います。言い方を変えると、上記条件のどちらか片方だけでも満たせればモンハンは楽しめるし、その為のインフラを開発者さん達が頑張って整えたからこそ、本来好みが超分かれるゲームの筈なのにこんなにマスに売れたんじゃないかなあ、と、そんな風に思うわけです。 で、Bの条件は周囲に左右されまくるんですが、Aの条件があればモンハンはソロ専でもとても楽しいので、上級者の人が初心者の人を誘う時は、その楽しみを味わえることを意識してあげるといいんじゃないかなー、と思いますですよ。 -------
「ポジティブ・ネガティブ」とか「プラス思考・マイナス思考」とかいう言葉も結構いー加減なマジックワードでして、厳密に定義しないままいー加減に書くので「いわゆる」をつけて読んでいただければと思うんですが。 持って生まれた性格や、長年馴染んできた考え方を変えるのって、物凄く大変だしストレスになると思うんですよ。自分を一度バラして再構築するような作業ですしね。物凄いコストがかかる。物凄いコストがかかる割に、根本から改善出来る保証はない。というか、根本から改善出来る可能性は割と低い。 で、「ネガティブな自分を変えよう!」とか、「ポジティブになれば人生楽しいよ!」といったことを喧伝する方は、その辺のコストについてはちゃんと考慮してるのかなー、と、たまに疑問に思うことがあります。 「ポジティブになれば」とか簡単に言うけどそれめっちゃ難しいことなんじゃないの、と。それによって得られるかも知れないリターンは
今日は、金沢文庫で所用を済ませた後、一家で川崎に遊びにいってました。川崎広いし色々面白そうです。今日は着いたのが15時過ぎだったんであまり遊べなかったんですが、またゆっくり行ってみます。 丁寧語ここまで。以下はただの雑記。 息子さんが、なにやら「京急で電車が発車する時、毎回鳴るなんか段々音が上がっていくメロディー」に興味を持った。で、私にネットで調べて欲しいという。 勿論これはインバータの音なのであって、多分京急ではなんか特殊なインバータでも使ってるのだろう、と思い、調べてみたらすぐに回答は見つかった。ドレミファインバータとか、 VVVFインバータとかいうものらしい。電車自体には私は詳しくないので、詳細なところはよくわからん。 調べることの回答がすぐ見つかるのは勿論Web時代の凄いところなのであって、息子さんは「Webで調べる」ことの凄さ、有用性は肌で分かっている。 ただ、一方、まだWeb
以前も似たようなことを書いた記憶がありますが、ちょっともう一度書かせて下さい。 いわゆる文章力というものには、大雑把に考えると二つの方向性があります。ざっくり「語彙力・表現力」という意味に近いものと、ざっくり「整理力・構成力」という意味に近いものです。 前者は、様々な単語や熟語、レトリックを使いこなして、きらびやかな、豊かな文章を作る能力。 後者は、文章の構造や論点をきちんと整理して、言いたいことを過不足なく、分かりやすく、読む人に伝える能力です。 この二つ、別に相互矛盾するわけではないですし、共存出来ないものでもないんですが、一方に特化すると、もう一方は発揮しにくくなる傾向があります。「表現が豊かで、しかも簡潔で分かりやすい」という文章はなかなか書きにくいんですね。短文であればあるほどそうです。 つまり、「表現力に近い文章力」と「整理力に近い文章力」をいっぺんに身につけるのは、不可能とは
まず最初に、@daichiさんのこのツイートがある。 読書感想文なんかより要約やらせたほうがよほど国語力伸びる気がする。書いてあることを書いてあるとおりに読めない人がちゃんと書けると考えるのなかなか難しい。要約が大事というのは全くおっしゃる通りであるし、書く前にまず読解から、という点にも異論はない。「今の学校教育における読書感想文」を対象にすれば、@daichiさんの言うことは実に正しいと思う。 ただ、私は本来「読書感想文には読書感想文にしか出来ないことがある」筈だし、もっと教育としてやりようがあるだろう、要約は要約で勿論必要だけど、「読書感想文なんか」と言わせてしまうのはいくらなんでも勿体ないだろう、という意見をもっている。 ちょっとこのエントリーではそれについて書いてみたい。 昔話から始める。 小学校の頃、それなりに気合の入った読書感想文を書いたことがある。確か、クラスの課題図書は、ケ
ちょっと前、「子どもに「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と言われた時、「こんなことも出来ないお前は何の役に立つの?」と返すのが最強」とかいうコピペをみて、心底アホかと思った。まさか親や教育者が本気にはしないと思うが、こういう一言は容易に知性を殺す。 「お前は何の役に立つの?」という言葉には、勿論「お前も今は役に立たないけれど、将来は役に立つだろう?それと同じだ」という含意があると思われる。子どもはこの含意を理解しない。「お前は役に立たない」と受け取る。これは、言ってはいけない言葉だ。こういう言葉が、子どもから学習自体を奪う。 子どもはどんな時に「こんなこと勉強して何の役に立つの?」というかというと、要はその分野が面白くない時、意味が分からない時、とにかくその勉強をしたくない時に言うのであって、つまり「どんな役に立つのか」→「役に立たないでしょ?」というのは勉強しないことの理由づけないし
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