2012/6/3014:18 学者脳、評論家脳の限界について・・・そして僧侶の問題。 前回に、ある本のことを書きました。 そのことで、僧侶として感じたことを少し書いてみようかな。 ある方から、やはり「信」がないからでしょうか、とのコメントをいただいた。 実際に、そうだと思う。 その典型が、『教行信証』や『歎異抄』に関わる論評だと思う。 この書物を、教えとして受け止め、その思いを自らが聞いて行く作業をすれば、 受けとめ方が全く違うのです。 自分の教えとして、自分のこととして受け止めて行く。 ところが、学者は表面的な部分とか、世間一般的な背景や歴史から考え ようとする。 それなら、その書物の意味していることは、まったく見えてこないのです。 学者脳や評論家脳の限界はそこにある。 特に宗教に関わるものはそうであろう。 吉本隆明氏がいた。 その思考性は別として、親鸞聖人の教えを自分で受け止めておられ