blog.hatenablog.com こちらの一覧。 大体、一週間で50ブクマくらいつくと順位に乗るのだけれども、こちらの記事 orangestar.hatenadiary.jp 一週間で70ブクマついているけれども、ランキングに載らない。 どうも、はてなブログの集計からもシャドウバンされてるっぽい。(はてなブックマークからはすでにシャドウバン済み) 一体、何をしたんだ…。理由が全然わからないけれども、はてな八分状態になってる。謎。
imidas.jp 「私が「冷笑系」だった頃〜「リトルひろゆき」たちとの楽しくも不毛で、だけど必要だった日々」という雨宮処凛氏のコラムを読んだ。この中で、まず自分が反応してしまったのが次の一節だ。 最初の頃はそんな彼ら彼女らに反発を覚えた。だってリトルひろゆきたちは、当時の私にとっての神だった大槻ケンヂまでこき下ろすのだ。もちろん彼らも大槻ケンヂが大好きなのだが、「神」と崇めるようなスタンスは痛く、好きだからこそ批評してナンボということらしかった。またそうすることによって、自分の知識の深さを自慢したいという動機もあるようだった。とにかく彼ら彼女らはすべてを上から目線で語っていた。 「ものすごく辛辣に社会批評をする童貞と処女の集まり」 本当に童貞・処女かは別にして、私は心の中で彼ら彼女らをそう呼んでいた。 この一節は、当時雨宮氏がリアルに(おそらくロフトプラスワンとかで)付き合っていた人らの
p-shirokuma.hatenadiary.com シロクマ氏の記事、基本的な部分としては同意しかありません。というか、まあ同じような話は、それこそ何回もしてきたわけで。 amamako.hateblo.jp 上記の記事で述べられてる「はてな村(的などこか)」というのは、要するに上記の記事で言う「駄サイクル」で、そして多くの人にとっては、「駄サイクル」的な場所でこそ、自らのインスピレーションを滋養する場所になるというのは、至極まっとうな話だと思うわけです。 ただ、そのように思う一方で、自分個人の経験に沿って言うならば、こうも思う訳です。 「いや、はてな村ってそんなやさしい場所じゃ無かったよ」と。 そりゃまあ、シロクマ氏とか、あるいは下記のブコメで挙がってるような 帰ろう、はてな村(的などこか)へ。 - シロクマの屑籠 kanose、otsune、はしごたん、Hagex。レイプレイ事件で
インターネットの大海原とそこでの消耗、消耗の回避についてざっと意見申し上げてみます……という体裁で書きたいことを書かせてください。 書くのが「怖い」とか「めんどくさい」という気分になることが多くなってきた - いつか電池がきれるまで Twitterとは、何だったのか。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。 お二方の文章を読んで私はこう思いました。「帰ろう、『はてな村』へ」。今のブログでは書きづらくて、今のツイッターが危なっかしくて神経を遣うとしたら、私たちはもっと小さな場所に籠って、自分の言いたいことを言ったり、自分が書きたいことを追求したりしたほうがいいのではないでしょうか。 井の中の蛙、というけれど 「井の中の蛙大海を知らず」って、何か良くないことを指摘する際に用いられがちな言い回しですね。しかし、ときには井の中の蛙でいること・いられることも大切で、なんなら必要ではないでしょうか。 例
hokke-ookami.hatenablog.com 上記エントリと関連あるようなないような話。 日刊ゲンダイなどに寄稿しているid:DavitRice氏の下記エントリで私が言及されていた。 davitrice.hatenadiary.jp 応答を求める意見が第三者からあったので*1、「北村紗衣」氏の誤記などをコメント欄で指摘した。 しかし返答や反論のコメントがないのはいいとして、簡単な修正すらないまま新しいブログエントリが上げられている。 もちろん、指摘を黙殺することも個人の自由ではある。意見が長文になるほど反応が難しくなることも理解するし、単純に読みやすさを損ねてしまう問題もある。 しかし今後も応答が期待できないと思わざるをえないので、別エントリに対する歴史認識についてのコメントのみ、記録をかねて下記に転載しておく*2。 ツイート*3などでDavitRice氏自身が関連づけている1年
このブログではめずらしく個人的な思い出話。 91年生まれ大反省会をしたい。わたしは91年生まれで今年30になる。若者と括られてきたけど、明らかに今の世代と全く育ってきた景色が違うことを感じる。政治家と言えば小泉首相、まだ日本は経済的にすごいと習ったし、嫌韓本が本屋に並び、ネットは2chにニコニコ、メディアは「オネエ」を笑っていた。 — 永井玲衣 (@nagainagainagai) 2021年7月5日 当時K-POPを色んな人が恐れていたのを覚えている。学問といえば受験勉強、フェミニズムはヒステリー、社会運動は危険、資本主義は疑えないもの。数え切れないイメージが潜在的に内面化されているはず。ここをしっかり毒出しして反省しないと、これからの世代を抑圧してしまう。ここが分水嶺だと思う。 — 永井玲衣 (@nagainagainagai) 2021年7月5日 ↑ Twitterでこういう投稿をみ
最近、はてなの長老方が今の「はてな村」について衰退を嘆いたり、悲しんだり、いやいや頑張ってるよと言ったり議論する様子を見た。 orangestar.hatenadiary.jp p-shirokuma.hatenadiary.com いっぽう、わたしはしばらくnoteにいったきり、はてなに戻ってない。そんな自分が今更「はてな村」について触れるのは少し後ろめたいというか、上京して地元がいかに不便か話すような後ろめたさがあって嫌だったのだけど、あのyomoyomoさんにコールして文筆家とまで認めていただいたことが嬉しく、少し自分なりの「はてな村」観を話すべきかと思った。 yamdas.hatenablog.com これまで見たところ、主たる「はてな村」の議論は、シロクマ先生、小島アジコさん、phaさんと、村から離れた・残ったどちらの立場にせよ、はてなブログがサービスを始める以前からずっと利用し
はてな村の定義をしない*1まま、はてな村についてフワッと語るクソ記事はっじまーるよー♪ フルーツバスケット 1 (花とゆめコミックス) 作者:高屋奈月白泉社Amazonこの記事読むよりは「フルーツバスケット」読んだ方が人生にとって有意義な時間を過ごせると思いますが、それでも読みたいという人はどうぞ。 はてな「ブログ」とはてな「村」は微妙に違うよね的な話をしたかったような気がする phenomenon-2.hatenadiary.org ・ユーチューバーは成功したらそこで食べていける。コミュニティーでの成功が経済的成功とも結びついている、といういい方もできる。はてな村で成功してもそれだけでは食べていけない。 ・ユーチューバーは「ユーチューバー」になりたい人たちが入ってくる。はてな村は「ユリイカ」とか「論座」とか単著とか何でもいいけどはてな村以外に行きたい人が入ってくる。 「はてなブログ全体」
はてな村キャッキャウフフに登壇 「はてな村が閉塞しつつある」というエントリが立て続けに書かれたことをきっかけに開催されるオンライン同窓会に呼ばれて参加することとなったのだけど、自分としてはダイアリー時代のことをあまり知らないし、ルノワールの会議室でホワイトボードが展開されるらしいリアルはてな村反省会には一度も参加していない。 7/2(金) 20:00からTwtter スペースで開催された『閉塞しつつあるはてな村を肴にしてキャッキャウフフする会』の本編と翌日の後夜祭に登壇して色々と思うところがあったので記録しておきたい。 配信オフレポ? 「はてな村民」の定義は「はてな村に言及する人」 最初に確認したかったのは「はてな村」ひいては「はてな村民」の定義。閉塞しつつあると言われても「はてな村」が示している先が異なると議論にならない。一般論としては話題と利用システムのマトリクスで表現されると思いつつ
インターネット話題がループ まだはてな村はありま~す。 はてな村はなくなったと思ってましたけど、これだけたくさんの人がはてな村と自分語りを書いていて、まだはてな村は現存してるんだな、と認識しました。自意識と自分語りが支配する村、それがはてな村。 サービスとしてのはてなブログ、共同体としてのはてな村。 サービスとしてのはてなブログは、確かにnoteとかほかの課金サービスに書き手をとられて右肩下がりの状態だと思う。 はてなIRはてなIR資料より https://ssl4.eir-parts.net/doc/3930/ir_material_for_fiscal_ym2/97963/00.pdf グラフを見てもらうとわかる通り、はてなのブログサービスの売り上げは低下していっている。ブログという文化が衰退しているのもあるだろうけれども、はてなブログから勢いが失われているというのは、感覚だけでなく、
ずるずると終わらない「はてな村論」ですが、お金の話が出てきて、だいたいの結論は出たと思います。こちらの話の通り、はてなに記事を書いても儲からない。一時期は、商業誌ライターへの登竜門であったこともありましたが、今はnoteのほうが優勢でしょう。本当にただの「ブログを書く場所」が今のはてな村です。才覚ある人々は出ていってしまった。 phenomenon-2.hatenadiary.org ネットで「マネタイズ」という言葉が流行ったのもずいぶん前のことです。いまや、ネットで書くことで金銭を得るのは当たり前のことになりました。出版社が作家の連載を企画し、それが再録されて本になる時代です。私が初めてインターネットに接続したのは1998年ですが、当時は検索ツールもなく、私は何をしていいのかわからないので、なぜか山伏が修行している写真が掲載されているサイトを延々と見ていました。20年でネットは全くの別物
amamako.hateblo.jp このコメントに対して俺は Phenomenon まとめると飯が食えないからだな。 コメントしたんだが、もうちょっと書いてみたくなった。結論はやっぱりコメントのとおりなんだけど、それだと一言で話が終わってしまう。もうちょっと丁寧に論を重ねてみよう。 言及先のブログ記事とか、その他のシロクマさんの書簡とかもそうで、はてな村がなんか10年村位前から衰退しているよねという現象に言及しているんだけど、じゃあなんでその現象が起こったのか、衰退しなかったコミュニティ、勃興したコミュニティとの違いは何だったのかというところまではあまり考察できていないように感じる。 せいぜい、ネットの大衆化の流れのせいだよね…みたいなふわっとした感じでしかない。 それに対してもうちょっと真面目に考えようぜっていう踏み込みがamamakoさんの記事ではあったんだけど、これを読んで俺は思っ
anond.hatelabo.jp 違うんじゃないかなあと思った。昔からバズった長文エントリなんかは、ユーモアがあって、世間やパンピーたちのよくある意見とは一線を画したモノだった気がする。インテリジェンスがあって、世相を切るにも根拠があって、キラリと光るものがあった。陽キャになれないだろうが、根暗でウジウジした陰キャにならずに、書を開き、涼しいところで思索にふけって論を組み立て発表するような。 今のはてな村の閉塞感はつまるところ、冷静で論理的で大衆に引きずられないないインテリジェンスとユーモアを持つ自画像、あるいはそういった理想像が消え失せて、極論と罵倒と短絡的なコメントで溢れかえった上に、ホットエントリに時折現れる七賢ちっくなエモ長文がゼロになった事による失望なのだと思う。 youtubeあたりでウェイウェイやっている陽キャたちより害悪な存在にまみれて、実はそのことも薄々気づいているけど
書くことがなくなった - phaの日記 もし書くことがなくなったら、俺らは一体なんなんだ - シロクマの屑籠 結局みんなキャッキャウフフしたかっただけなのか - phaの日記 シロクマ先生やphaさんなどの投稿をきっかけにして、いわゆるゼロ年代の、わたしもそこに参加していた、はてなダイアリーを中心としたブログ、あるいはweb日記の盛り上がりはなんだったのか、と考えた。 ブログ(やそれ以前のweb日記・テキストサイト)以前には、特に有名でもない個人が思うことを文章に書いて共有などできなかった。そういう個人による表現の面白さと、それを可能にするインターネットで表現のプラットフォームを作る産業の盛り上がりが同時に起こり、当時はある種のハネムーン期だったとおもう。なんだか社会が変わるかも的な期待があって、でもまだまだブログなどを書いたり読んだりする人は社会全体からみたら少数派なのでそこを接点に出会
小島アジコとしろくま先生がネットの閉塞感について議論しているけど、核心をぼやかしているよね。 きみらはブログによって、自分らがメディアの主役になって「何者か」になれると思ったんだろう。 実際、途中までは雑誌やテレビよりもブログから面白いやつが出てくるって状況はあったわけだ。 ブログを頑張っていれば、単著を出せて作家になれるかもしれない未来があったわけだ。 クラスの端っこで地味にやっているやつでも、うまく筆力をアピールすればネットでは主役になれると夢見れる場所だったわけだ。 新聞、雑誌、テレビなどの古いマスメディアは凋落して、自分らを中心にした新たな文化圏ができて、そこでは自分が大家になれると思っていたわけだ。 しかし、実際やってきた世界はどうだろう? そんな世界にはまったくならなかった。 今やネットはプロのコンテンツを配信で見る場所になったわけだ。 クラスの人気者が、そのままネットでも人気
ちなみに言うと、「はてな村」界隈とかあるいはゲンロン界隈みたいなところは、このツイートでも指摘されているとおり極めて閉鎖的なところで、東浩紀などといった「お山の大将」の思いつきを擁護するような集団だった。 https://t.co/niil4sLVhc
いきなりだが、いわゆるノンバーバル(非言語的)なもののほうが価値があると思っている。発している言葉がきつくても、とても穏やかに笑う人に僕たちは好感を持つ。逆にどれだけ正しい事を言っている人でも無表情で淡泊な人の話は耳に入ってこなかったりする。コミュニケーションにおいて喋っている言葉は10%程度しか影響しないとどこかで読んだことがあるけれど 活字メディアにおいてのインターネットはつまり10%にしかならないということだろう。言葉なんてその程度の価値しかない。 言語が言語そのままとして価値があるのであれば今のようにYoutubeやtiktokなどの動画メディアが支配的になることもなかったはずだ。動画配信者はブロガーが必死で10%を構築している間に100%自分を表現できる場所で表現している。一方でこうしてブログなどを使い必死で文章を書いても文字通りたかが知れている。Youtubeと比較すればアクセ
p-shirokuma.hatenadiary.com anond.hatelabo.jp 他の人はどうだか知らないけど、少なくとも僕があんまりはてなで長文や他人の記事に反応する記事を書かなくなったのは、「ここで僕が何かを書いても、それを真剣に読んでくれる人はだれも居ないように思えてならない」からだったりする。 在りし日のはてな村 非モテ・非コミュとか、あるいはオタクとしての自意識とか、はたまた現代のサブカルチャーと時代精神の関係とか、ゼロ年代からテン年代前半の頃のはてな―少なくとも僕の周りのはてなは―そんなことばっかりを語り合っていた。 amamako.hateblo.jp amamako.hateblo.jp amamako.hateblo.jp amamako.hateblo.jp amamako.hateblo.jp なんでこういうことばっか書いていたかと言えば、それはひとえに、現
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く